エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

祝福すること

朝は空気がひんやりして気持ちがよかったので、久しぶりに1時間ほど散歩をしてきた。


内田樹の「呪いの時代」を読む。

呪いの時代

呪いの時代

なんだかタイトルが気乗りせずにスルーしていたのだが、図書館でぱらぱら見てみると「どうもこれは」と思って借りてきた。身にしみる。


「学者というのは『知識を持つ人間』ではなく、『自分の持つ知識についての知識を持っている人間』のことだと僕は思います。ですから、自分の知っていることは、『知るに値するする』ことであり、自分が知らないことは『知るに値しない』ことだと無批判に信じ込める学者のことを僕は端的に『学者の腐ったようなやつ』と呼んでいました」
学者はつい自分の分野を高く評価してしまう。自戒すべし。


「身の丈に合わない自尊感情を持ち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は創造的な仕事を嫌い、それよりは何かを破壊する生き方を選択します。必ずそうなります。「…を叩き潰せ」「…を打倒せよ」「…を一掃せよ」というのは、そういう人たちが選択する言葉遣いです。破壊する者の側に回れば、自分よりもはるかに社会的に実力がある、上位の人間と対等の立場に立つことが、場合によってはそれより上位に立つことさえ可能だからです。
新しいものを作り出すというのはそれほど簡単ではありません。創造することは個人的であり具体的なことだからです。

だから、全能感を求める人はものを創ることを嫌います。創造すると、自分がどの程度の人間であるかがあからさまに暴露されてしまうからです。だから、全能感を優先的に求めるものは、自分に「力がある」ことを誇示したがるものは、何も『作品』を示さず、他人の創りだしたものに無慈悲な批評を下していく生き方を選ぶようになります。自分の正味の実力に自信のない人間ほど攻撃的になり、その批評は残忍なものになるのはそのせいです」
20代の自分が苦しんだことが書かれている。おまけにその裏には「食っていけるのか」という恐怖感があった。


「現在の教育現場では、「君たちには無限の可能性がある」という激励は許容されても。「身の程を知れ」「分をわきまえろ」というアナウンスに対してはつよい抵抗を覚悟しなければなりません。そんなことをうっかり口にした教師には生徒や保護者達から猛然としたバッシングを受ける覚悟が必要です。けれども、子供達の過度に肥大した自尊感情を下方修正し、適切な自己評価を受け入れさせることは、実際には子供達の潜在的な才能の開花を支援するのと同じくらいに重要な教育的課題なのです」


「どうしてこれほど毒性の強い言説を全国紙が撒き散らしたのか、僕には今でも理由が理解できません。「他責的な説明」の分泌する毒の恐ろしさを人々はあまりに軽んじています。「悪いやつ」がどこかにいて、すべてをマニュピュレイトしているというチープな物語を受け入れてしまうと、僕たちは「この社会を住みやすくするために、ささやかだが具体的な努力をする」という意欲を致命的にそがれてしまう。「努力しても報われない」という言葉をいったん口にすると、その言葉は自分自身に対する呪いとして活動し始める」

「この「呪いの時代」をどう生き延びたらいいのか。その答えの一部はすでに書きました。それは生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりぱっとしないこの「正味の自分」をこそ、真の主体としてあくまで維持し続けることです。「このようなもの」であり、「このようなものでしかない」自分を受け入れ、承認し、「このようなもの」にすぎないにもかかわらず、けなげに生きようとしている姿を「可憐」と思い、一掬の涙をそそぐこと。それが「祝福する」ということの本義だと思います」


「自分の利益だけしか配慮しない利己的個体は、この社会では階層下位に釘付けにされる。そういうルールで僕達はがゲームをしている。べつに誰かが決めたわけじゃなくて、人類史のはじめからそう決まっているんです。たまたまこの30年ほど日本は有史以来例外的に豊かで安全だった。だから、「利己的にふるまう人間」の方が、「共同体全体の利益を配慮する人間」よりも早く多目の資源配分にあずかるという「ふつうはありえないこと」が起きた。でも、そんなことは例外的な歴史的状況でしかおきないことなんです。そして、その例外的歴史的状況はもう終わったと僕は思います」

人間性とは、全ての装飾を剥ぎ取って言えば、「贈り物をもらうと、お返しをしないと『悪いこと』が起きそうな気がする」という「負債感」のことです。いや、ほんと、だから、この「負債感」をもたないものは人間ではない。そう言い切っていいと思います」
内田さんのこの話を知ったからなのだと思うが、しみじみとそう思う。この手の話は文化人類学の初歩なので、若い頃にひととおり通過していたはずなのだが、なぜか内田さんが書くとすんなりと腑に落ちる。


原発事故をめぐる鼎談のとき、いちばん感動したトピックは、橋口さんが震災からずっと「原発に向かって祈っている」という話だった。
40年間、耐用年数を10年すぎてまで酷使され、ろくな手当てもされず、安全管理も手抜きされ、あげくに地震津波で機能不全に陥った原発に対して、日本中がまるで「原子怪獣」に向けるような嫌悪と恐怖のまなざしを向けている。それでは原発が気の毒だ、と橋口さんは言った。誰かが「40年間働いてくれて、ありがとう」と言わなければ、原発だって浮かばれない、と」

炭酸ガスが排出されると地球環境は壊滅的な被害を受けるというあのキャンペーンは「炭酸ガスを出さない、安全でクリーンなエネルギー」である原子力発電への評価をじりじりと押し上げた。だが、「北極のシロクマさんのために」火力発電を止めて原発に切り替えると今度は「日本の人々」が放射性物質被爆を恐れなければならないリスクが発生しますということを「温暖化防止キャンペーン」に携わった人たちは誰もアナウンスしなかった。炭酸ガスが増えると、光合成がさかんになって植物が繁茂し、炭酸ガスの吸収が進み、濃度を下げる。そういうふうにして自然界はバランスをとっている。これども放射性物質については、こんな牧歌的なバランスは存在しないということは誰もアナウンスしなかった」

「「ほうれんそう」ということが会社内で言われるようになって久しい。「報告・連絡・相談」抜きでことを決してはならないということを日本の組織内労働者は耳にたこができるまで叩き込まれている。原発事故はある意味で「ほうれんそう」の産物である」
まともな話だと思う。原発には結局「畏れつつ使う」というのが個人的には暫定的意見だが、たぶん内田さんのブログなどでこういう話を耳にしていて、自然にそういう結論に至ったのだろうと思う。

人間的であること。祝福すること。