エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

学びからの逃走・労働からの逃走

内田樹の「下流志向」を読む。

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

題名から何となく、格差社会のあれこれを批判的に取り上げたルポを想像していて、思想家・内田樹とのつながりがよくわからなかったのだが、本書は、「学びからの逃走・労働からの逃走」の淵源を探ろうという内容である。その結論は、「子どもたちの学力が低下しているのは、子どもたちの怠惰の帰結であるのではなく、努力の成果なのである」というものだ。虚をつく結論だが、もしこれが本当であれば、きわめて対処の難しい問題だ。教育を生業とする人たちや、学齢期の子どもを持つ人たちに勧めたい。

その論理展開は、まず「子どもたちが就学以前に消費主体としてすでに自己を確立している」ということに基づく。したがって、子どもたちは教育サービスの買い手として学校に入ってくる。彼らの貨幣は、教室にいることを我慢するという不快感にならざるを得ない。こうして教室は不快と教育サービスの等価交換の場となる。子どもたちは、当然ここで手馴れた値切り交渉を行おうとする。つまり、自分の「不快という貨幣」を最高の交換レートで「教育商品」と交換しようとする。たとえば、「この授業は十分程度の集中の価値しかない」と判断したあとは、残り四十分を「授業を聴かない」ということに全力を傾注しなければならなくなる。その努力の結果、子どもたちの学力は低下する。

世界中で同様の社会変動が起きているのに、日本の学力低下だけをそのようなロジックで説明できるのだろうか、という疑問がわくが、そこに内田樹はこう答える。

「日本では、社会的弱者が進んで差別的な社会構造の強化に加担するという仕方で階層化が進んでいる。弱者が自分自身の社会的立場をより脆弱なものとするために積極的に活動している。
この点では世界でも例外的な事例だと思います。
自らの意思で知識や技術を身につけることを拒否して、階層降下していくという子どもが出現したのは、もしかすると世界史上初めてのことかもしれない」

ニート問題についても同根だと、内田樹は考える。「消費主体としての幼児期における自己形成の完了」である。

ニート問題の最大の難関は、ニートたちが子どもの頃から一貫して経済合理性に基づいて価値判断を下してきて、その結果、無業者であることを選んだという彼らの側の首尾一貫性は経済合理性を論拠にしては突き崩すことができないということです」

大学における改革が経済合理性に基づいて進もうとしている現在の状況において、別の視座からの理論武装なしでは、ただ言いなりに動くしかなくなる。その理論武装の手がかりとしては、本書は格好のものであろう。