AIには未知のものを見つけること(真のブレークスルー)はできない というロジック
AIの真のブレイクスルーはこのままでは訪れないとAI開発プラットフォーム・Hugging Faceの最高科学責任者が懸念
演繹と帰納では未知のものを見つけること(ここで言う真のブレークスルーもその1つである)はできない(この場合の「未知」とは、「既知ではないもの」ではないことに注意)
未知のものを見つけるには、少なくともパースの言うapdactionが必要である。
演繹と帰納にはアルゴリズムが存在するが、apdactionを実行するアルゴリズムを見いだせていない
現在の計算科学にはアルゴリスム非依存のAIは存在しない
したがって、AIには未知のものを見つけること(真のブレークスルー)はできない
何だか言葉にしたいいくつかのこと
いろいろ理由をつけてしばらくブログをさぼっているうちに、何だか言葉にしたいいくつかが溜まってきた。
(1) 本質を捉えることの方が役に立つことより重要だ。
(2) 研究者としてやっていくためには、結局は演繹と推論では届かない時期が来る(と思う)。パースが提唱したapdactionかそれに似たものがどうしても必要だ。これだけ情報にあふれた環境では、演繹と推論では何かに似たものしか出てこない。より正確により緻密に考えようとするほどその届かなさが意識されてくる。
(3) 科学者は、現実を理解するためにモデルを作るのであって、モデルを作るためにモデルを作るのは筋が良くない。
腑に落ちることは大変大事だが、確証バイアスの存在を考えると「腑に落ちたい」という過剰な欲望は危険である。現実は人間が理解できるようにできているわけではない。したがって、モデル化を目指す理論家は自制的でなければならない。
光を描くときにタッチはむしろ邪魔になる
朝から有楽町に出かけて、フェルメール The Greatest Exhibitionを観る。2023年にアムステルダムで開かれた最大の展覧会の内容を記録したドキュメンタリー。非常に楽しめた。
フェルメールの名前を意識したのは35年くらい前に、友人に「北のモナリザ」(=「真珠の首飾りの少女」)という絵がオランダにあるのだと聞いた時だという記憶がある。10くらいしてスミソニアン美術館でフェルメールの画集を買って、学会出張の合間合間にページを繰っていて、「デルフト遠景」に巡り合った。これでフェルメール好きが確定した。15年くらい前に東京で「牛乳を注ぐ女」が展示されたときには用事にかこつけて京都から見に行った。
個人的な油絵の見方として筆触(タッチ)が気になる性分だ。これはゴッホや須田国太郎の絵が好きだからそうなったのだと自分で想像しているが、今回の映画でフェルメールの絵のいくつかをZoom upでじっくり見た時に、タッチとは全く別のところに魅力の核心があるのを認めて驚いた。光そのものを描くときにタッチはむしろ邪魔になるらしい。絶妙の設計で点描を入れていくことでマジックを生み出す。これは映画の後半でいろいろな形で解説されていたので腑に落ちた。
フェルメールの作品は37作あるそうだ。リタイアしたらトルコに遺跡を見に行きたいとずっと思っているが、オランダもいいなと思った。
長い19世紀と神経科学の歴史
数字上の19世紀は1801年から1900年までだが、1789年のフランス革命から1914年の第1次世界大戦の始まりまでを「長い19世紀」とまとめて考えると腑に落ちるという話がある。一般的なレベルで個人が意識されるようになる端緒としてのフランス革命にはじまり、人の本性の最悪なところが見えてしまう世界大戦までの126年だ。Rise and fall of individualsという言い方もできる。
この「長い19世紀」の黄昏に、神は死んで(ニーチェ)、精神分析と現代的な意味での神経科学が立ち上がったのは偶然ではないだろう。(そんなものがあるとしたら)現代神経科学の中心地はアメリカ合衆国だが、フーコー的な郊外の隔離型精神病院→ヨーロッパから一斉に移動した人たちにより精神分析が神経学を占拠→1970年あたりからの神経伝達物質の同定に代表される物質中心主義的神経科学への大移動→意識の数理モデルとデータサイエンスというきれいな4段階の切り替わりは「長い19世紀」が準備した、ということをとりあえずの作業仮説として少しばかり頭を整理してみたい。(今後追加する予定)
COVID-19の年だった2020年も最後の日
COVID-19の年だった2020年も最後の日。東京の感染者が1300人という知らせを聞いて家内と顔を見合わせる。
2020年はTwitterを使い始めた年だった。6月に再開された講義は全てリモートになったが、立ち話もはばかられる状況だったので何をどうしたらいいかがよくわからない。考えて阪大の菊池先生や学習院の田崎先生のTwitterをフォローしてその情報をもとに講義を試行錯誤していった。それでもまだ双方向にはなかなかならないのでそこは2021年の宿題。
2020年はラボとしてノックアウトマウスの論文をはじめて出した年になった。予想以上に大変だったがこれでかなり引き出しが増えたのでもう2本くらいはこれで書きたい。
2020年の収穫と言える本
1.西郷甲矢人、田口茂
頭をゆさぶられた本。一読したあとすぐにメモを取りながら読み返したが二度目は随分印象が違った。もう一度読み返して備忘のためにブログにまとめる予定。特に、量子力学の解釈を考える上でnon-canonical choiceが効いてくるというアイデアは驚いた。「自由は具体的な自由としてしかありえない」
読み進めるのが惜しくて下巻は休み休み読んだ。特に第2次世界大戦のドイツ側の内幕を読んだのは衝撃だった。
3.さまよえる自己 内海健
「まなざしは自己に先行する」「忘れるがゆえに思い出すことが可能となる」
希望という言葉が背負える力
新型コロナウイルス感染症流行のはじまりのころに、小澤征爾が指揮するサイトウ・キネンオーケストラのマタイ受難曲をたまたま聴いた。名曲という話は耳にするが自分には縁のない曲だと思っていた。でも気がついたら2時間弱の演奏を一気に聴ききっていた。こういう状況が感受性をたかぶらせて受容の下地を作っていたのかもしれない。こればかりはこういう状況にないと身に染みてこないのだろう。以来、精神安定薬がわりに気が向いた時に聞き続けている。
アビジット・V・バナジーとエステル・デュフロの「絶望を希望に変える経済学」を読む。この夫妻は2019年のノーベル経済学賞の受賞者だそうなので、知っている人は当然多いのだろう。非常に優れた本だと思う。
科学について理系文系という分け方におよそ意味はないが、社会が理系の科学の対象になることは統計や推定モデルを使ったsimulationやモデル化を除けばまずないと言っていい。生きづらい世界や社会になるほどその解決の方法を直接考察する社会科学は大事だと思う。思うが何だか物足りないと思っていたが、そういうもやもやした気持ちをけとばしてくれる本だった。
バナジーとデュフロの問題意識は格差拡大、後進国経済、社会の分断、貧困層のモラルなどに経済学、社会科学の視点から答えようというもので、トマ・ピケティなどと近い。
http://tnakamr.hatenablog.com/entry/20150104/1420364658
「事実から目をそらさず。見てくれのいい対策や特効薬的な解決を疑ってかかり、自分の知識や理解につねに謙虚で誠実であること。そしておそらく一番大事なのは、アイデアを試し、まちがう勇気を持つことだ。より人間らしく生きられる世界をつくるという目標に近づくために」
「最良の経済学は多くの場合に非常に控えめだと私たちは感じている。世界はすでに複雑で不確実過ぎる。そうした世界で経済学者が共有できる最も価値あるものは、往々にして結論ではなく、そこにいたるまでの道のりだ。知りえた事実、その事実を解釈した方法、推論の各段階、なお残る不確実性の要因などを共有することが望ましい。このことは、物理学者が科学者であるのと同じ意味では経済学者が科学者ではないこと、よって経済学には絶対確実と言えるものがほとんどないことと関係がある」
特にじんときたのはアメリカにおける不平等の拡大を「尊厳」という見方でとらえ直した第7章だ。
「この不平等な世界で人々が単に生き延びるだけでなく尊厳をもって生きていけるような政策をいますぐ設計しない限り、社会に対する市民の信頼は永久に失われてしまう、ということだ。そのような効果的な社会政策を設計し、必要な予算を確保することこそ、現在の喫緊の課題である」
「発展途上国を旅して何度となく気づかされるのは、希望は人間を前へ進ませる燃料だということだ。抱えている問題でその人を定義することは、外的な条件をその人の本質とみなすことにほかならない。そのように扱われた人は希望を失い、社会に裏切られ疎外されたという感情を強く持つようになる。それは社会全体にとって非常に危険なことだ」
いちど今持っている枠を外して考えれば、たしかに希望という言葉が背負える力は大きい。