エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

日本の文脈

庭の鉢の沈丁花のつぼみはまだ薄緑だが、少しずつ膨らんできている。送別会の予約も終わった。


内田樹中沢新一の「日本の文脈」を読む。

日本の文脈

日本の文脈

「(内田)人間の労働の基本はオーバーアチーブですからね。いま自分がやっている努力と報酬のゲームのルールがよく理解できない。だから、そのルールを理解するためにさらに労働する。オーバーアチーブによって何が返ってくるかというと、報酬ではないんです。報酬とは違うものが返ってくる。オーバーアチーブする人間が受け取るのは、報酬ではなくて、労働とその報酬のやりとりという構造全体についての知なんです」

「(内田)すべての人間的営為は、突き詰めれば『贈与と反対給付』によって構成されている。労働もそうなんです。労働は労働するに先立って、すでに贈与を受けたことに対する返礼なんです。等価物の交換じゃない。これだけの努力をしたから、これだけの報酬をくださいという話じゃないんです。僕たちはいくら返しても返しきれないものをすでに贈られている。だから、お返ししなくちゃいけない。それが労働の基本的な動機づけだと思うんです。自分はすでに負債を負っている。だから、このご恩を返さねばならないというマインドセットがないと、人間は労働しない、労働できないんです。すべての人間的な営み、人間的創造の起点にあるのは、この無根拠な負債感だと思う」

そういう世代なのだということか、こういう言い方をされるとああそうだよねという気になってくる。「お蔭様で」というような感じだろうか。ところがそれを若い世代に伝えようとすると恐ろしく難しいので、こういう表現をできる内田さんは稀有の精神の持ち主だと感心する。その負債感というのはおそらくこの下の文章のようなものであろうと思う。

「(内田)民主主義が効果的に機能するのは、血を流してこのシステムをつくった人が現にいるのだという切迫感、その人たちから贈与されたものであるという被贈与の感覚があってこそだと思うんです。アメリカの民主主義も、建国の父たちの血で購った独立国家民主制なわけで、身銭を切ってわれわれにこのシステムを寄贈してくれた先人がいるんだという被贈与の感覚があるときには、民主主義が健全に機能する。でも、その『感謝の気持ち』が時間とともに希薄化していって、デモクラシーというシステムがまるで昔から自然物のようにずっとあったものだと思い出すと、上手く機能しなくなる。民主主義というシステムは、絶えず誰かが身銭を切って下支えをしないと持たないんです。支え手がいなくなってしまうと、プラスチックの構造体が宙に浮いているようなものになってしまう。生身の肉体が分泌する情念とか名誉心とか理想とか、そういう生き生きとしたものが民主主義のシステムを下支えしている。そのような生命的なものの補給が絶たれると、それはかたちだけは民主主義だけれども、劣化した民主主義になってしまう。みんなが民主主義というシステムから自分はどういう利益を引き出せるのか、どういう権利を行使できるのかだけを考えるようになって、民主主義システムを支えるためにどんな仕事があるのかを問わなくなってしまう。それはアメリカでもヨーロッパでも日本でも同じですね」


今日は子供と合気道を見学に行ってみようと思う。