エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

Accepted causality can be accepted?"

本郷の寿司屋に穴子を食べに行く話が、いつの間にか工学部でのワークショップということになって、powerpoint作りにねじを巻くことになった。"Morphodynamics and signal processing in a cell"。これは完全にサイドワークなので、M.Y.先生のようにひたすら放言を連ねる予定。トークのタイトルが"Accepted causality can be accepted?"というのがすでにホストに喧嘩を売っているし。


森博嗣の「大学の話をしましょうか」を読む。

二年ほどN大学から車で1時間のところに住んでいたので、森博嗣を読むようになった。「全てがFになる」を読んだときは、森博嗣がこんなにメジャーになるとは思わなかった。印税が准教授の給与の10倍を超えて森博嗣がN大学をやめたときは、「ふーん、そんな道があったか」と思った。私は大学をやめる日のために、コーヒーの入れ方を極めたい。

「昔に比べて今の学生はここが悪くなっている、といった点はありませんか」
「そうですね、よく指摘されているところですが、ハングリー精神というか、のし上がってやろう、という意欲は、確かに薄れているかもしれません。昔の貧しい社会では、人に先んじて、自分をアピールし、立場を確保する必要がありました。そうするころで、それがお金に結びついたし、そうすることで、貧しい暮らしから脱することができたからです。しかし今では、人に先んじる必要はない。まあ、適当にやっていて。群から極端に遅れるようなことがなければ、なんとかなる。ビリにならなければ良い、という社会なのです。がから、どうしたって、ハングリーな精神は生まれないでしょう。それは仕方がないことだと思います。それなのに、精神論だけで、「やる気を出せ」という無理なことを要求するのは、明らかに時代遅れ、というか、それでは子供たちは絶対についてこないでしょう」
この思想をさらに敷衍すると内田先生ですね。

「家庭の教育に関して、僕には人に主張できるような持論はありません。二人の子供を育てたことしかないし、たまたま二人とも上手く育ちましたが、それで僕の教育方針が正しかったなんてとてもいえない。教育論というのは、基本的にそういったものだと思います。つまり、これこれこうすれば上手くいくという唯一の答なんてないのです。では、自分の思ったとおり貫くことが良いのか、というと、そうでもありません。常に、自問して、これで良いだろうか、と自らを振り返ることが必要です。でも、どうやって、なんとか良い子に育てよう、という気持ちがあれば、それは少なくとも子供たちに伝わるものだと思いますね。もちろん、これは家庭だけでなく、学校の教育においてもまったく同じだと想像します」
最後の一文でどきっとした。

「教員というのはサービス業であって、学生に対して精一杯のサービスをしなければならない、ビジュアルなものを講義に取り入れ、体験させ、わかりやすい説明をしなければならない、という方向です。結局
、簡単に言えば、気を引くために「もっと飾れ」という意味なんです。そういう「飾り」で気を引かれている学生の方が、僕は哀れだと思いますけど...。
ビジュアルにアピールするっていうのは、テレビ感覚なんですね。言葉で説明すれば一瞬で伝達できるものを、わざわざ絵を見せ、動画を見せ、時間をかけて、効率を落として伝えるわけです。そうすることで、いかにも教育に工夫をしているのだ、という姿勢を示そうとしているわけですね。そうしなければならない環境はあるかもしれません。
けれど、それは決して本質ではありません。本質ではないところものもので、いつも議論がなされているように感じています」
私はimagingの人間なので、こういうことを言われると困るのだが、少なくともここには立ち止まって考えてみるべきことが書いてあるような気がする。

「まず、もう何度も書いていることですが、人間の知的能力は、問題に答えることではなく、問題を見つけることである、というのが僕の考えです。問題を解決する能力は、いずれは知識や過去の事例を集積したコンピュータによってなされるのではないか、と思います。そうなると、人がすべきことは、何が問題なのか、何を考えれば良いのか、ということになるわけです。
問題を作る作業には、問題を解くことに比べてはるかに高度な思考能力が要求され、しかも、その人間のセンス、あるいは、ユーモアも現れます。つまり、そういうものが知的能力です」
ここ、ほぼ全く同感。ただまあ問題は、では問題を見つける能力をどうやってはぐくむかだ。そしてたぶんそれは、欲望の強さに比例する。ということは、欲望が弱くなっている今の学生さんはそもそも問題を見つける能力にハンディキャップがある、ということになってしまうのだろう。むしろ大事なのは欲望の涵養?

「申請書を書くことが、教授・助教授の仕事の大半だといってよいでしょう。個人的な申請ならば簡単ですが、額が大きいときはチームを組まないといけませんから、そうなると、その申請書を書く以前に、集まって会議が必要です。それがまた大変。研究テーマなんて、もうほとんど架空のものだと言ってもよくて、SFとまではいいませんけれど、まあ小説を書いているような、つまり創作だと思ってもらってけっこうです。とにかく、研究を遂行ことが主目的ではなくて、いかにして審査にパスするか、いかにして資金を獲得するか、ということが最優先課題になるわけです」
いやまあ、これはいろいろですよ。文科省もNIHモードに入りつつある(部分もある)ので、予備的データでアピールした方が得。下手するとお金が来た時には研究の主要部分は終わっているということもあるわけで。でも、森博嗣は実験もやっていたはずなんだが。