エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

ひとつの学問が消滅しつつある

Gipiとやりとり。RNAi screeningの威力を感じる。


渡辺哲夫の「二十世紀精神病理学史序説」を読む。

二十世紀精神病理学史序説

二十世紀精神病理学史序説


これだけメンタルクリニックが繁盛する世相をよそに「ひとつの学問(=精神病理学)が消滅しつつある」と書く豪胆にまず心を動かされる。名著かどうかの判断は難しいが、この本が著者にとって「書かずにはいられなかった本」であることに間違いはないだろう。

精神病理学はどこかで道を誤ったのだ。そして、岐路の位置は、少なくとも私には指示できる。あまり気づかれていないようだが、この学の道の踏み外しは精神医学の大学者と称される人々のはっきりとは見えない過誤あるいは強引な決断で始まった」

「いわゆる正統精神病理学の本格的開始を告げたヤスパースと、大きな思想運動にまで展開していく精神分析創始者フロイト、このふたりの学問の思想的背景に、ともに<歴史不在>という刻印が押されているのは、二十世紀人間精神の特有の狂性を帯びた粗暴と人間精神の狂性の認識を任務とした一学問が敗北してゆくプロセスとの関係を考えていくにあたって兆候的な事実である」

「私が言いたいのは、ただ一点、精神諸科学の一分野を占める精神病理学の言説は政治思想史的な力と無縁ではなく、精神病理学的な「真理」はつねに国家権力の強弱と権力者たちの思想の関数に堕す危険性をもつという実情である。強力な国家権力に支えられた精神病理学がいつも虚偽であるとは言えない。権力への無意思的依存自体こそが問題なのだ。クレペリンの早発性痴呆概念の中枢を成す破瓜病と緊張病の「発見」そその影響力の大きさがヨーロッパ大陸最強国家ビスマルク帝国の成立とは無関係だと断ずるのは危険である。旧ソビエト連邦精神病理学はパブロフの条件反射説に縛り続けられていた。連邦解体と「真理」の変更は同時的であった。そしてこの約20年間、われわれはアメリカ合衆国製の診断基準を「真理」と思い込み始めている」


読み終わって、いくつかのポイントが記憶に残る。


1)現代という環境の中で、生命を歴史の中に埋め込むことの難しさ。そこから生じる生命体としての人間の焦燥。それに対し鈍感になることで過ごす正常人と、そうできない分裂症者。そういう見方をしたときに、この状況は日本独特のものではなく、地球全体で共有されているものであることが腑に落ちる。地球上にこの運命を免れている場所はない。

「アンネにおける<不在>がいかなる地平で問われなければならなうか、理解されてくるだろう。問われるべきは主観的時間体験の異常などではない。時間のなかにあると考えられがちな「いま・ここ」の変容などではない。時間はどのように構成されるのか、という根底的な問いが発せられねばならない」

「不連続性が問題になるのは、「現」の構成においてであり、過去世界自体は、そういうものがあると仮定してもなお、「現」を構成する力を持たない」

「Iが訴えているのは、<歴史>の造形力が働かなくなると<生命>は、かたちも動きも維持できなくなる、われわれには信じがたいほど実体的に散乱してしまうという事実である」

「身体医学を見れば明らかだが、医学研究の重点を決定するのは大衆である。明瞭には意識されていない「不安定」を感じる大衆が、医学に研究主題を選択すべく要請する。医学はこの要請に敏感に反応して、これに従う。結果として選ばれたのが、20世紀の精神医学にとっては分裂病であった」

「しかし「病み」ゆく大衆のなかの「病み」ゆく「ひと」と、いわゆる分裂病者の違いは明白だとも言える。つまり「ひと」は<歴史不在>のなかで言わば眠っている。<不在>を忘却するほどに純粋技術人として、そして、純粋欲望人として、飛び回っている。ところが、いわゆる分裂病者は<歴史不在>において覚醒し<歴史不在の想起>という孤独な闘争、ひとりぼっちの革命を開始すべく強いられた人間なのだ」

「現今のわれわれの時代光景を見れば否応なく思い知らされる。高度の技術と膨大量の情報を手に入れた野蛮人の群れ、物質的・官能的な満足、進歩を血眼になって追い求める自然人の群れが右往左往している。歴史的使命に応じる鋭敏な感受性を有していた「人間」にとっての「高さ」はここまで歪み、傾き、荒廃し、朽ち果ててしまっている。もはや、われわれにはいかなる「高さ」も許されないと言ってよかろう。千差万別の、と言っても実は千篇一律のフェアシュティーゲンハイトのみがわれわれに許されているだけである。われわれはここまで「病んで」しまった」

「結局のところ、<歴史不在の想起>という主体的営為は<生命>のフェアシュティーゲンハイトと同義になる。この絶望的な事態に直面して、なおかつ孤独な「わが闘争」をやめぬ者を、われわれは分裂病者と呼ぶ。しかし、もしも「分裂」との言葉が残るとするなら、これは、<生命>の勢いと<歴史>の力が「分裂」してしまったとの意でなければならない。すなわち、われわれと分裂病者はまったく同じ運命を共有しているのである。
では、「病み」ゆくわれわれと分裂病者の実社会的な相違はどこにあるのか?20世紀、<歴史不在>は、かつてナチの存在論者が嘆息したごとく、惑星的規模に拡散してしまったのではないか?そうであるならば、相違は消えてしまうのではないか?」


2)「感覚性」→「精神性」という発達を強いられた人類というフロイトの慧眼。おそらくここにかなり多くの精神疾患の原因を求めることができる。

「それゆえ、人類が発達するなかで感覚性が徐々に精神性によって圧倒されていく現象、人間がこのような進歩のたびに誇りを感じ高められたと感じる現象が確かに目の前に存在するだけでになる。けれども、なぜそうえあるのか、誰にもわからないのだ(フロイト)」

ヒトラーフロイトが直接に対決した事実などない。互いに相手を敵とみなしたのは間違いあるまいが、事実的なふたりの闘争などなかった。それにもかかわらず、思想史的に見て、ここには<生命>と<歴史>の、感覚性と精神性の苛烈な闘争がはっきりと露出しているのである。
最晩年のフロイトを捉えて離さなかったのは、まさしく<歴史不在の想起>という苦行であった。このユダヤの英雄は<歴史不在の想起>という殆ど不可能な難行もひとりで行って死んでいった」


3)「神の発狂」と「人間の観念の死」

アウシュヴィッツにおいては、犠牲に、目的が、信仰が、神々しい息吹が、欠けていたのである。ひとりの存在の苦悩ならば意味があるとしても、600万の苦悩には意味がない。ピョートル・ラヴィッチによれば、それは神が発狂したことを証拠だてているのである。アウシュヴィッツでは、たんに人間ばかりか、人間の観念もまた死んだのである。世界がアウシュヴィッツで燃やしていたのはそれ自身の心だった(エリ・ヴィーゼル)」


精神病理学の再生はあるのか?測定不可能な力を論じる方法はあるのか?

「そして、精神病理学の本来の任務は、この「浮力」発生の病理の解明にこそあったのだ。目に見えないだけでなく測定不可能な力を論じ、その病理学を展開するのは、物理としての力学の場合と違って大変むつかしい。しかし、見出された問いの質が要請するなら、いかに困難であろうともこれに応じるのが学問の義務だろう。事実、真の歴史家は信念をもってこのような困難な仕事、歴史的存在の明証性を示す難行に従事してきたではないか。精神病理学は科学的と称される医学を越えてゆく恐怖を克服できなかったのかもしれない」