エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

光の場、電子の海

Iさんとの会話。
「ブライアン・グリーンの本にエントロピーは未来に向かっても増大するけど、物理法則は時間反転について対称だから、過去に向かっても増大するって書いてあったんだけど、それってほんと?」
「うん、本当だ」
「なんで?」
「それは、現在という時刻を特別な時間として選んでくるところに由来する」
あとで思った。現在を選択することによって現在のエントロピーが最小になっているのなら、エントロピーの概念は操作的なものであって、根源的なものではないのではないか。今度会うときはそこを聞いてみよう。


吉田伸夫の「光の場、電子の海」を読む。

光の場、電子の海―量子場理論への道 (新潮選書)

光の場、電子の海―量子場理論への道 (新潮選書)

ファインマンの教科書で「量子を理解した人は誰もいない」といわれた時、ほっとした。波動ー粒子二重性が心底は理解できなかったからだ。それからは量子力学の本を読むのが随分気楽になったものだ。ところが、量子場の理論はどこが肝なのかがなかなかわからない。たいていの本は(啓蒙書そのものがほとんどないわけだが)、ひたすら数式をつらねていって、「ほらこれで場が量子化できたでしょ」と言い放つ。

そういう意味で、これは誠に珍しい量子場の理論の啓蒙書だ。出来は、「セカンド・クリエイション」より上かも。これを読むと、そうか波動一元論でいいんだ、ということが納得できる。

「拡がりを持つもの(弦、膜、媒質、あるいはそれ以外の何か)が量子論的な振動を行うと、粒子・波動の二重性を示す現象が生じる−これが、量子場の理論の基本的な発想である」

「パウリの見解は、ディラックとは全く異なっていた。彼は、波動関数とは別に、ダイナミックに振動を伝える電子の場を想定した。q数(=演算子)になるのはこの電子の場であって、波動関数ではない。ディラック流の立場では、電子という粒子の存在を理論の前提としなければならない。これに対して、パウリ流の立場によると、電子とは場の振動が粒子のように振舞うことだと解釈される。つまり、電子はあくまで派生物なのである」「波動力学」という言葉は、もともとはシュレディンガーが自分の理論を呼ぶ時に用いたものだ。彼もまた、あらゆる物理現象が波動であるという立場をとっていたが、そこで用いられた波動関数は、粒子のように凝集した状態を保つことができずに拡散してしまうため、現象の根源的な記述にはならなかった。これに対して、量子場の理論では、場そのものを量子論的なq数だと見なすことで、粒子的な状態を維持することに成功した」

「電子が完全に静止している時には、全てのバネの振動が同じになるので、どこで振動が起きているかという場所を特定する事ができず、その結果として、電子の位置は完全に不確定になる。「電子が完全に静止する」とは電子の運動量がゼロに確定することなので、電子の位置が完全に不確定になることは、位置と運動量を同時に確定できないというハイゼンベルク不確定性原理と合致している。というよりも、本当は、電子が場の振動状態であることこそが、不確定性原理の起源なのである」

「粒子的な振る舞いだけではない。量子場の理論は、空虚な空間すら前提としていない。量子場は、近接する場のつながりによって空間的な拡がりをも作り出している。あらゆる物理現象が全て量子場の振動を通じて生起すると考えられるのだから、「まず空虚な空間が存在し、その中に量子場がある」という言い方は無意味なまでに冗長である。「量子場がある」と言うだけで、空間的な拡がりが内包されているのだ。ニュートン力学では別個の概念として扱われていた空間−時間−物質−力が、量子場という1つの概念に集約されると言ってもよい」

もちろん、場の量子論の難しさについても適切な説明がある。
「量子場の理論は根本的な難解さを秘めている。特にわかりにくいのは、波動が二重に現れる点である。1つ目の波は電子の場ψ(t,x)が担うものである。Ψがc数ならば、音波や弾性波と同じような古典力学で記述される波が場を伝わっていく。しかし、実際には、Ψはq数なので、あらゆる地点でゆらいでいる。このゆらぎが2つ目の波である。シュレディンガーの理論では、波動関数ψ(x)によってq数である電子の位置xのゆらぎを表していたが、量子場ではψ自体がq数なので、Ψ(ψ(t,x))という絶望的なまでに難しい関数を考えなければならない。こんな関数は、計算によって値を求めることなどできない」

吉田伸夫は原論文を味読して、そこに現れた科学者の素顔を記す。そこがこの本の魅力でもある。

「この論文に限らず、ボーアは、通常の物理学者とは随分違った発想で議論を進める。一般的に見られる物理学的思考とは、何らかの仮説を前提として、そこから演繹的にさまざまな命題を導き出していくものだ。実験や観察のデータを合わない結果が出てきた場合に自主的に仮説を捨てる事もあるが、どちらかというと、自分の仮説に過度の自信を抱く物理学者が多い。これに対して、ボーアは、1つの仮説にこだわらず、納得できる結果が得られるまで、いろいろな可能性をとっかえひっかえ試してみるタイプだ。パッチワーク思考とでも言うのだろうか、論文の中で互いに矛盾する仮定を使うこともためらわない。他人の学説を引用する際にも、前提を無視して役に立ちそうな式だけを借りてきたり、適用できないはずの対象に適用したりと、掟破りの議論を平気で行う。ボーアの論文はひどく読みにくいといわれるが、それは、単に持って回った言い方や妙に思索的な表現が多いからだけではなく、物理学的とは言えない発想をするためでもある」
シュレディンガーの論文を一読してまず気付かされるのは、その無駄のないスタイリッシュな書きっぷりである。アインシュタインならば、自分はどのように考えてこの結論に到達したかを事細かに書いていくだろう。ボーアならば、この結論を導くには、こんな考え方がある、あんな考え方もあると、お得意のパッチワーク思考を披露するかもしれない。しかし、シュレディンガーは、そうした回り道はしない。論文の初めに解くべき方程式を提示し、これを数学的に厳密に扱って、必要な結論を導くだけである」
「もし物理学の世界に完璧なものがあるとすれば、それはパウリの論文である」