エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

それは存在しないものという概念を発明したことです

今日はいいお天気で(ほぼ)雑用がなくて、割とスムースに論文が書けた。たまにボーっと青空を見ると、キャッシュがクリアされて文章製造装置が動き出す感じがする。


青柳いづみこの「グレン・グールド 未来のピアニスト」を読む。

グレン・グールド―未来のピアニスト

グレン・グールド―未来のピアニスト


ゴルトベルク変奏曲(デビュー盤)をはじめて聴いたのは大学1年の時で、もちろんレコードだった。きっかけは何だか覚えていないが、オーディオを買って夢中になってあれこれ聴いていた時だったのでガイドブックか何かで知ったのだと思う。(ある種の好みの人には説明不要なように)非常に気に入った。一方で、後年になって「ゴルトベルク変奏曲は不眠に悩んでいたゴルトベルク候のためにバッハが書いた曲だ」ということを知って違和感を感じた。これほど緊張感(ただし決して不快なものではない)に満ちた曲で眠れるものなのだろうか。
この本を読んだことで得たものはたくさんあったが、そのうち最良のひとつはライブ版のゴルトベルク変奏曲の存在を知ったことだ。

グールド・ザルツブルク・リサイタル1959

グールド・ザルツブルク・リサイタル1959

早速購入して、「これなら眠れる」と永年の疑問が氷解した。自然な流れ。聴いたことがないほど美しいピアニシモ。
グールドのライブ録音を聴いて、この本で青柳さんが言っていることが感覚として腑に落ちた。グールドはマジシャンだったが、その魔術はスタジオ録音で表現される知性だけによるものではなく、むしろ音楽家としての「どこかに持って行ってしまう力」によるものの方がはるかに大きいということだ。


グレン・グールドのことをこんなふうに調べ始める前、私は何となくグールドというのはオズの魔法使いのような存在だと思っていた。つまり、住民に緑色の眼鏡をかけさせることによってありきたりな町を壮麗なエメラルドの都とみせかけ、自らも玉座の上に乗った巨大な頭、あるいは絶世の美女、あるいは目が五つある化け物、あるいは火の玉と思わせている。
オズの魔法使いはめったに人と会わない。とりわけ、会って欲しいと人から頼まれるのが嫌いで、すぐに追い返してしまえと命令する。
しかし、実際にはオズは魔法使いでもなんでもなく、からくりと腹話術に秀でた小さなしなびたおじいさんにすぎなかったのだ。
だから、グールドの演奏家時代のライブ録音や、ライブ映像、テレビやドキュメンタリーに出演したときの映像を見たり聴いたりして、グールドのエメラルドの都は、眼鏡をかけていないときでも壮麗で美しいことに、というより、眼鏡をかけているときとはまったく別の美しさに満ちていることを知り、心底びっくりした」


もうひとつこの本を読んで、ちくっときてそのままどこかにひっかかっているくだりはここのところだ。

「これから社会に巣立っていく若者たちにグールドは、「諸君がすでに学ばれたことやこれから学ばれることのあらゆる要素は、ネガティブの存在、ありはしないもの、ありはしないように見えるものと関わりあっているから存在可能なのであり、諸君はそのことを意識し続けなければならないのです。人間についてもっとも感動的なこと、おそらくそれだけが人間の愚かさや野蛮さを免罪するものなのですが、それは存在しないものという概念を発明したことです」と語る。(中略)
 われわれは、社会的自分、倫理的自分、芸術的自分を支配するために、純粋に人工的な、しかし全面的に必要なシステムを構築する。音楽は「非常に非科学的で非実体的なもの」、つまりネガティブな存在だが、どうして人を動かし、深く人に働きかけるのか、誰もうまく説明できない。その音楽にしても、システムのくびきから逃れることはできない。たとえば、係留された13度でぞっとしたり、解決音の属七で気持ちよくなったりするのも、機能和声に準拠した教育システムのなせるわざかもしれない。『音楽のような芸術を実践しているひとたちがシステムのポジティブな諸前提だけに捉われるようになるとき』、あるいは、音楽がネガティブなものを背景にしていることを信じなくなるとき、彼らは『創造的発想のよりどころである想像力を新たに駆使しようにも届かないところにいるのです。実のところ、想像力の駆使とはシステムの中にしっかりとおさまった場所からシステムの外にあるネガティブの領域へと用心深く身を浸していくことだからです」とグールドは言う。」


ここのところ(講義のためもあり)継続的に考えているのは、「人間の意識がいかに作られたか、どうできているか」ということで、できるだけ学生にわかるように(ということは自分でそれなりに腑におちるまで)とあれこれ読んでは考えている。今のところ一番しっくり来ているのは身体性認知科学の考え方だ。(『現れる現在』http://d.hatena.ne.jp/tnakamr/20121224/1356306095


しかし「ほかの全てのものと同様に、意識もまたブリコラージュで作られた」と考えるとわからないことのひとつは、「『存在しない』という概念がどうつくられたか」ということだ。そこが不思議なので、『存在しないものに向かって』とかを買ってちらちら読み始めたら、どうやらいわゆる「真理論」をそれなりにわかっていないと歯がたたないらしいと感じて、こんどはそちらの本を買ってきたりして前途遼遠という感じで過ごしている。そういうところに上記のようなすばらしく直観的な表現を聞くと、少しだか何だかわかったようになる。ただまだまだ表現できないので、このところずっとそのアイデアの尻尾にぶらさがっている。


「存在しないもの」とグールドが彼のレコーディングで表現したかった「音楽そのもの(ただし完全には表現できないもの)」の間につながりがあるのであれば、グールドのバッハを(あるいはそれ以外の曲も)聞いていれば、「いつかは何かわかる」のだろうか。こじつけかもしれないが、大学のころにグールドの4、5枚のレコードを聴きながら、ある意味でそれに似た問題を考えていたのと基本的な状況は一緒で、ぐるっとまわって戻ってきたのかという気もする。