エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

否定と流動

最近、イギリスのSさんとメールのやりとりをしている。お互い論文で名前を知っていただけの仲なので、最初は「こんなこと書いてもいいのかなぁ」という感じだったが、お互いの興味がほとんど一致している(幸い手法が異なる)ことがだんだんわかってきて、打ち解けてきた。来年のリスボンでの学会のついでに寄るという話になっていたのだが、お金が取れたらその前に共同研究のために誰かを寄こすよ、という話になった。そのうちスカイプで話そうよ、と言われているが、英語がなあ。


中沢新一赤坂憲雄の「網野善彦を継ぐ」を読む。

網野善彦を継ぐ。

網野善彦を継ぐ。

網野善彦が死んで5年。依然その大きな後姿はさまざまな影響を残している。この本は、網野善彦の死の4ヶ月後に行われた対談集であり、中沢新一赤坂憲雄による「反網野包囲網」に対する挑戦である。

「(中沢)網野さんは気づいていたのですね。歴史学が歴史を理解する時に、じつは国家の視点にたってそれを記述しているんじゃないか。ところが、この国家というものと国家によりそって記述される歴史学に永久に抵抗していく何かえたいの知れない力がある。それこそが根底的な否定性ではないか。そういう否定性の力に立つ歴史学を構想していくことはできないだろうか」

「(中沢)民俗学はもともと強烈な欲望の学でした。柳田国男折口信夫南方熊楠中山太郎、誰ひとりとっても欲望の人たちです。近代のなかで実現できないもの、否定されつくしたもの、しかしそれが語りかけてくるものを語りだすことを民俗学はやろうとした。ところが戦後になって、大学の教科にもちゃんと入るようになってなかで、その民俗学の欲望はどこにいってしまったんだろうかと、ぼくなどもしばしば考えさせられます」このあたり、民俗学はどこか分子生物学に似ている。分子生物学もまた、セントラルドグマで全てを斬りつくそうとする強烈な欲望の学であったが、その成熟のなかで、従来の原理的な視点を徐々に失い、いつの間にか枚挙主義に接近しつつある、と感じる。

「(中沢)人間は、根源において移動するものである。心は根源において流動するものであり、それが人間の心の根源を作っている。そうすると、人間の精神は、構造を持つものと流動するもののワンセットとして最初からできていることになる」色と空みたいなものかな。

「(赤坂)ぼくは歴史をずっと掘り下げていくということと同時に、水平軸でね、東北に身をずらしていったときに、西の方で自明とされているような天皇が東北には存在しないことに気づきました」

「(中沢)人間は根源において狩猟民である。この狩猟がはらんでいる人間関係や聖なるものとの関係を考えていくときに、じつは「無縁」「公界」「楽」の原理が出てくる。北方のマタギのような狩猟民の社会構成のあり方と、「無縁」「公界」「楽」の世界はつながっていると思います。極端なことを言うと、狩猟民のなかにある原理は、都市的な何かにつながりがあるということになるかも知れません。こう考えてみると、マルクスの思想なんかにもそういうところがあるんですけれども、「貨幣」「都市」「流動性」、フロイトをもってくると「無意識」ということでしょうね。無意識は流動していきます。こういうものが、人類の基本的な精神構造のなかにセットされていると考えていくと、世界史はいろいろな意味で逆転していくでしょうし、ものごとは意味を変えていくでしょう」このあたり、島田荘司の「都市のトパーズ」を連想させないでもない。

否定性に基づく思想だけが新しい局面を開くことは、物理学の歴史を学んだものにとっては自明ではあるのだが。