エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

日本語が亡びるとき

先週の神戸の学会での発表で一区切りつき、学生のGさんと今後の方針を1時間くらいかけてじっくり話す。話は半分くらいできたが、もうふた山はありそうだと話す。結構頑張りがきく子なので、このまま投稿まで無事にいってくれるといいのだが。この辺りからがしんどくもあり、面白くもあるところだ。

梅田望夫小飼弾が強力にプッシュしている水村美苗の「日本語が亡びるとき」を読む。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

「人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。それも、長い<書き言葉>の伝統を持った日本語なのである」
「日本人は、日本語は「絶対、大丈夫」という信念を捨てなくてはならないときに来ている」
「だが、これから先、日本語が<現地語>になり下がってしまうこと−それは、人類にとってどうでもいいことではない。たとえ、世界の人がどうでもいいと思っていても、それは、遺憾ながら、かれらが、日本語はかくもおもしろい言葉であること、その日本語がかくもおもしろい言葉であることを知らないからである」

時々どきっとすることが書いてあって、そこで考え込みながら読んだが、論旨に納得するところまではいかなかった。視点が固定しているので、一面的な議論になっているのではないか。著者にとって、「日本近代文学」は、他の国語、あるいは日本のほかの時代の文学に比べて何か絶対的な価値を持つものであるらしい。それがどういう個人的な背景からくるものかも書きこまれてはいる。ただ、その前提は十分疑いうるもの、あるいは相対化できるものなので、この本の説得力はごく限られたものであると感じた。

12月20日の追記:内田樹がこの本を評したブログを読んで、自分の読みの浅さを悟った。再読したい。
http://blog.tatsuru.com/2008/12/17_1610.php