エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

いままで以上に世界の一部になるということ

土井珈琲からグァテマラ・イエローブルボンという小ロットの豆を買って飲んだら美味しくて、二杯も三杯も飲んでしまう。苦味がなくて味に膨らみがある。これでもう少し甘味があると本当に完璧。


ニコラス・カーの「オートメーション・バカ」を読む。

オートメーション・バカ -先端技術がわたしたちにしていること-

オートメーション・バカ -先端技術がわたしたちにしていること-


この数年のことだが「機械が人間の職を奪うだろう」という未来予測が語られることが目立って多くなった。
研究の世界は少し別かと思っていたら、多機能の実験ロボットの試作品はすでにできていて、九州大学のある先生の話では
「人間よりはるかに実験の再現性が高く、この10年で研究室に1台のレベルまで普及するのではないか」そうだ。

学生に将来の職業のアドバイスをするときに、「研究のトレンドは変わるから、特定のテクニックを身に着けるよりも
ある技術を高いレベルで早く身に着けたり、それに工夫をしたりする能力を身に着けたほうがいい」と言ってきたが
どうもその程度では足りないのではないかという漠然とした不安感を感じていて、この本を読んでみた。


結果からいうと、この本を読んだことは有益だった。ただ、当初の期待とは異なった。

得たものには、大きく2つあり、ひとつは知的オートメーションの弊害とはどういうものか、ということだ。
この中にはGoogleサーチの検索用語のrecommendationも含まれるので、予測されている弊害の範囲は非常に広い。

「グーグルは、サーチエンジンの反応と感度を上げ、人々が求めているものをより正確に予想できるようにしたことで、一般大衆の知的レベルの低下が起こっていることを認めている」


もうひとつは、「でも望みはある」ということだ。私たちは、IT技術の勢いは止められないだろう、自動運転車も
wearable端末も好き嫌いにかかわらず普及するだろうとある種の無力感の中にいる(それを多幸感と感じる人もいるが)。
その無力感を特に強く感じるときに、対案としてこういう考えや技術があると具体的に示されると楽な気持ちになる。


この本の優れているのは、そうしたひとつひとつの議論をたっぷりした具体例で語らせていることだ。
そういうすぐれた、かつ思わず膝を打つようなネタが次々に出てくるので、読むのが楽しい。


いくつか魅力的なキーワードを挙げてみる。

深層認知処理、生成効果、暗黙知、身体化された認知(身体性認知科学)、人間工学(ヒューマン・ファクター・エンジニアリング)

この本のほとんど最後のところに印象的な一節がある。

『われわれの最も注目すべきことのひとつは、同時に、最も見落としやすいもののひとつでもある。それは、現実とぶつかるたびにわれわれは世界への理解を深め、いままで以上に世界の一部になるということだ』

別の表現をさがしてくると以下のようになるが、これは身体性認知科学、特にアンディ・クラークの主張と非常に近く、この本の中にもクラークの仕事が紹介されている。
http://d.hatena.ne.jp/tnakamr/searchdiary?word=%2A%5B%C7%BE%A1%A6%BF%C0%B7%D0%5D

「明らかなことは、われわれの物理的存在が、それを生み出した世界から切り離せないのと同じくらい、われわれの思考を、われわれの物理的存在から切り離すことはできないということだ」

「われわれの時代の最大のアイロニーのひとつは、思考や記憶、スキルの発達において、身体的行動と感覚的知覚が重要な役割を果たしていると科学者たちが発見しつつあるまさにそのときに、われわれが世界で行動する時間は減少し、コンピュータ・スクリーンという抽象的媒体を通じて、生活や労働を行うようになっているということだ。われわれはみずからを脱身体化し、みずからの存在を感覚面から狭めている。汎用型コンピュータを作り出したわれわれは、倒錯的にも、道具を使って労働することの身体的喜びを、われわれから奪う道具を発明したのだ」


知的オートメーションの本当の弊害は、最近の神経科学認知科学の成果である「生成効果」や「暗黙知(の実態)」「身体化された認知」といったものを踏まえると、クリアに見えてくる。

「生成効果(記憶を呼び出す操作)が生じているとき神経の中で何が起こっているのか、心理学者も神経科学者もいまだ解明できていない。だが、記憶における深層認知処理が関わっていることは明白だ。何かに懸命に取り組み、それを注意と努力の焦点とすると、われわれは報酬としてより大きな理解を得る。より多くを記憶し、より多くを学習する。じきにノウハウを、すなわち世界において滑らかに、熟練したやり方で、目的をもって行為するための特定の能力を獲得する。何かに関して上達するには、実際にそれをやってみるほかないと、われわれのほとんどは知っている。もっと言えば、コンピュータ・スクリーンからであれ本からであれ、情報をさっさと集めるのは簡単だ。だが真の知識を、とりわけ記憶に深く根ざし、スキルのなかに現れる類の知識を得るのは難しい。骨の折れるタスクに、長期にわたって精力的に取り組む必要があるのだ」

「ニムウェヘンが実験で観察したこと―問題解決などの認知的タスクを自動化すると、情報を知識へ、知識をノウハウへと変換する能力が阻害されるということ―は、現実世界でも記録されつつある」

「(あるエキパーストシステムについて)このソフトウェアは思考の強度を減じることで、情報を記憶に組み込んでエンコードする能力を阻害し、真の専門知識に不可欠な、豊かな暗黙知の形成をできなくなってしまうのである」

「コンピュータを使用している医師たちは、診察記録には通常、文例集のテキストを「カットアンドペースト」しているけれど、メモを後述したり手書きしたりしているときのほうが、「記録しつつある情報の質と独自性をより深く考察」できると語っている。実際、手書きや後述のプロセスはある種の「危険信号」として働き、立ち止まって「何が言いたいのかよく考える」ことを自分たちに強いるのだと彼らは言う」

「もしわれわれが不注意であれば、知的労働のオートメーション化は知的努力の性質と焦点を変化させ、最終的に、文化そのものの土台のひとつを侵食してしまうだろう―つまり、世界を理解したいというわれわれの欲望を、である」

「2013年、Nature Neuroscience誌に発表された論文で、モーゼルとブザーキは、『目印と目印のあいだの空間的関係を規定すべく進化した神経細胞メカニズムは、物体や出来事などの事実的情報のあいだの関連性を具現化する働きをもなしうる』ことの実験証拠を多数提示した。そうした関連性からわれわれは人生の記憶を紡ぎだす。脳のナヴィゲーション感覚―運動を空間内に記し、記憶するという、古代からある複雑な働き―は、あらゆる記憶を展開する源泉なのかもしれない」

「スケッチするという行為は、精神のなかに隠された暗黙知の倉庫を開け放つ手段のように思われる。それはあらゆる芸術的創造行為にとって決定的に重要な、謎めいたプロセスであり、意識的思考だけで達成するのは、不可能とは言わないまでも困難なことだ。『デザインに関する知は、作業の中で知るものであり、主として暗黙知である』とショーンは述べる。デザイナーは『自分を行動モードに置くことによって最も(あるいは、置くことによってのみ)作業知へのアクセスを得られる」


この本の内容がこれだけであれば、読む前に私が感じていた漠然とした不安感は強化されただろう。全体のトーンはどちらかといえばハードで、本の帯にうかがえる出版社の意図もそこにあるのだろう。しかしながら、著者は第7章まるまるをさいて「人間のためのオートメーション」について力強い議論を展開している。

「世界をつかむ力を弱めるのではなく、強める方向へソフトウェア・プログラムやオートメーション・システムを作り変えるのも可能だということをわれわれは無視している。しかし、コンピュータが与えてくれる多くの恩恵を失うことなしにガラスの檻を破る方法を、ヒューマン・ファクターなどの分野の専門家たちは発見しているのだ」

ヒューマン・ファクターの専門家たちはずっと前から、テクノロジー第一主義のアプローチから離れ、人間中心主義的オートメーションをとるようデザイナーたちにうながしている。人間中心主義のデザインは、機械の能力の査定から始まるのではなく、機械をオペレートする、または機会とインタラクトする人間の力と限界を、慎重に見定めることから始まる。テクノロジーの発達を、もともとの人間工学を推進していた人間主義的原理へと立ち戻らせようとするのだ。その目的は、コンピュータの速度と正確さを利用するだけでなく、労働者が―ループの外ではなく、内側で―関与的で、能動的で、注意力を持っていられるよう、役割と責任を分担させることである」


この本は、それに続く第8章と第9章でややspeculativeな議論に傾くが(ただし第9章の文章は個人的にかなり好きだ)、それまでの例証の積み上げのおかげで最後まで議論は迫力をもって展開されている。