エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

17−20世紀の観念史

昨日ビデオがおシャカになってしまったので、BDレコーダーを買うことにして(地デジ対応もそろそろしなければならないし)、朝からネットで調べもの。価格ドットコムやら何やらを巡った揚げ句、Panasonicの実売5.6万円の機種(2番組録画は不可)に決めた。そのまま注文するつもりだったが、ビエラとのセットで特売をやっているかもと家内が言い出して、駅横のビッグカメラに現物を見に行くことにする。

ビッグカメラでついていた値段はポイント還元分を考えても、ネット最安値より1万円高い。もう少し何とかならないかと店員さんと話していたら、BDレコーダーはSONYが作って他所に流しているので、結局SONYが割安になると言う話になった。おすすめ品は2番組録画ができて、HDは350GBで、ポイント還元分を考えたら7.1万円。「あ、これを買おう」と思った。そのまま持ち帰ろうかとも思ったが、一応ネットでチェックすることにして、帰宅して価格ドットコム。最安値はちょうど7.1万円。どうしようかと思ったが、ポイント還元よりは、現金価格で安い方がいいよなという相談になり、藤沢のPC-Trustに注文。やっぱり商品のことはネットより、もののわかった店員さんと話すのが一番、というありがちな展開の一日だった。

高山宏の「ブック・カーニバル」を読む。1100ページの書評集。

ブック・カーニヴァル

ブック・カーニヴァル

「アリス狩り」という書名を目にしたことはあったが、高山宏については「何だか怪しい方面の人。ほぼ荒俣宏」という程度の知識で特に興味はなかった。ところが、豊崎由美が稀代の名品として「ブック・カーニバル」を激賞していたので、ふと図書館で借りてきて読み始めたら、とまらなくなった。ともかくすごかった。

高山宏は、松岡正剛とか荒俣宏と同じ種族の人。17−20世紀のあらゆる知(科学や政治、経済を除く)に通暁している。なので、彼のこの本を読むと、17−20世紀の科学や政治、経済のイベントがどういう知的潮流のもとに出てきたのかが裏側から見えてくるしかけになっている。18世紀後半の熱力学、1920年代の不確定性関係と不完全性定理、二度の世界大戦、ヒットラーの台頭などなど。読んでいる内に急速に視野が広がってきて、だんだんくらくらしてくる。

「たとえばマニエリスムを初めて世界観のレベルで理解したドイツの文化史家グスタフ・ホッケの「迷宮としての世界」は、はっきりそうでなかったと説く。新天文学と植民地経略で一挙に多次元的に広がった世界が信じがたい量の物量と情報をもたらした。そういう時代相を背景に初期資本主義が、そして初期情報革命が、17世紀に浸透していった」

「18世紀こそ近現代ヴィジュアル文化の原型を全て用意した「目」の文化、「絵」の文化であったことの認識が、このところ、この重要な世紀の理解を彼我でぐんと深めつつある」

「象徴論に関わるユング分析心理学の成果を人文諸科学に浸透させていく作業を核にして、学問の総体を、表現術の総体をサイキック化していくこと−それが言ってみれば20世紀後半の学知の趨勢であった」

「ホッケのいわゆる「自然構図」から「幻想−人工構図」へのこの歴史的転換は他ならぬこの20世紀末、われわれの日常に再現されてきている状況ではあるまいか。もはや未踏の領域の残らぬまでに入りつくしたテレビの眼、末期的消費資本主義が生み出す新奇な事物の山に囲まれる日常の中で、われわれは目をしだいに自らの内部に移しつつある。大脳生理学とか神経生理学といった分野への関心である。大変逆説的な言い方だが、「もの」が溢れない限り「こころ」への関心は目覚めないのだ。外界における事物の横溢はやがて否応なく配列ないし配置の問題を通してアレンジメントの技術、「関係」の諸学、秩序の感覚をうむ。即ち「近代」をうむ」

「科学は心理学にその根を持つ。科学が「客観的」であり得る根拠は今やどこにもないのである。古典物理絶対の神話がハイゼンベルクやボーアの量子論コペンハーゲン解釈の出現を持って崩壊し去った時点で、科学をモデルとしてきた知の形式に代わって、「観念史」学派に典型を見るような諸学の「壁」を方法に突破する反範疇の「道化知」の形式が成立してくる」

「要するにいろいろな相なり層が多重に重なり合ってできていくのがわれわれの「現実」であるとするなら、それをできるだけ線形に単純化しようとしてしてきたのが「近代」という名の文化である。60年代末、いわゆる対抗文化の運動は「近代」のそうした単純化では「現実」がもはや見えていないことを言う運動であった。「現実」はもっと多重、多元的なものである」