エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

はじめての宗教論

震災で被害を受けて今もつらい思いをしている全ての人達にお見舞いの気持ちを伝えたい。今回の震災の報道に長時間接していると強い無常観を感じて普通の生活を送るのがつらい気持ちがしていたが、そろそろ何とかしたい。折から、前の研究室で指導していた学生の論文がMBCに受理されたので、いいきっかけにしたい。梅も沈丁花も今が盛りだ。


佐藤優の「はじめての宗教論」を読む。

はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲 (生活人新書)

はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲 (生活人新書)

はじめての宗教論 左巻 ナショナリズムと神学 (NHK出版新書)

はじめての宗教論 左巻 ナショナリズムと神学 (NHK出版新書)


神学についての本をまじめに読むのはたぶんはじめてのことだ。特に左巻で、シュライエルマッハー以降の近代神学については全く予備知識がなかったので、あちこちで考え込んだ。


「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、「天にいる神」をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学が必須です。われわれは「天にいる神」をほんとうに信じていませんが、ほんとうにしんじていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一前提です。だかたこそ神学が不可欠なのです。神学的な操作がない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」

「シュライエルマッハーは「宗教の本質は形而上学と対立する」と位置づけた。近代的な宇宙論と矛盾するような、形而上学的なところに神を位置づけたとしても、これは全く説得力がなくなってしまいますから」
「シュライエルマッハーによると、宗教の本質は形而上学ではない。道徳でもない。つまり思惟でも行為でもない。では何かというと、それは直観、そして感情であるという。形而上学と宗教との軋轢を解消すること、そして宗教が道徳律に回収されるのを防ぐこと。この二つがポイントでした」
日本の哲学(形而上学)はむしろ積極的に宗教と融合しようとしている印象があり、このあたりは正直よくわからない。

「しかし、人間が超越的なものへの依存から脱却して自立したという自己意識をもっていても、死を回避することはできません。超越性を克服したという自己意識は、虚偽の自己意識です。少し深く考えてみると、人間と言うのは超越性を持たないといきていけないことがわかります。「私は宗教を信じない無神論者である」、あるいは、「私は唯物論者であるので、神も仏も信じない」といっても、それは無神論唯物論を一種の超越性として信じると言う意味で、宗教であることに変わりはありません」

「倫理と道徳は異なります。道徳とは善悪についての一般的基準のこと。これに対して倫理とは、特定の人が個別具体的状況でとる決断のことです。−−−理念や理論は現実の世界で具体的な形をとったときにはじめて意味をなす。受肉論のこの教えに従って、倫理とは個別具体的な状況での判断だとすると、そのことは人間に苦しい決断を強いることになります」



「人間は自己中心的です。原罪を持っています。そのような人間たちが、主観的心理と神の啓示を混同するとどうなるか?自らの願望と神の啓示を一緒にしてしまう危険性が生じます」

「既に述べたように、「絶対依存の感情」という定義によって、人間は宇宙を直観で捉える力を主体的に持っているという形になってきた。そうすると、人間の主観と宇宙を統べる意志の違いはなくなってしまいます。<外部から何らの支えをも必要としない心の底からの確信>などというものがなぜ言えるのか?なぜ、そういったものが信用できるのか?絶対依存の感情によって神を捉えることができるからです。われわれの心の中に神の声が聞こえるからです。だから、断固自分の信じる道を行け、ということになる。皆が信じる道を断固として進み、それで<政治的行動への真の指針と見なされるようになった>結果、第一次世界大戦という大量殺戮がもたらされたわけです」
このあたりの記述は西洋史の内的論理を切り取っていて迫力がある。


シェリング:「神は収縮している。神が縮まった分できあがった場にわれわれは生きている。この場は、人間の持つ自由意志によって悪の領域に変わってしまった。苦難や悪がこの世の中に満ち溢れるようになってしまった。この状況を打開するには人間的な努力によっては無理で、神の世界について知らなくてはいけない。しかし、コペルニクス以降の世界をいきるわれわれは、天上界の神を信じることはできない。ならば、われわれの存在の根底のところにある、何かひび割れのようなものに触れることで、われわれの実存を徹底的に掘り下げていかなければならない。単なる知的操作によってではなく実存全体をかけて、これ以上掘り下げられないという限界のところに至った時にはじめて、神の世界を獲得することができる」

「宗教とは決断ではないと言うことです。われわれは常に、あれかこれかという選択肢を前に決断を強いられます。しかし、その決断が正しいという根拠はどこにもありません。だからこし、宗教には揺らぎというか、不安定さが必要なのだと私は思います。宗教とは実存的ではなく、脱実存的なものです。そして、本質的にわれわれのちっぽけな決断を壊すものです」