エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

未知なる心

朝方の北斗七星が異常に鮮やかである。


ジョン・ホーガンの「続科学の終焉 未知なる心」を読む。

続・科学の終焉(おわり)―未知なる心 (Naturaーeye science)

続・科学の終焉(おわり)―未知なる心 (Naturaーeye science)


「WHOによれば、12億人以上の人々が何らかの種類の神経精神病的あるいは行動上の病気にかかっている。アメリカ合衆国だけでも、脳関連の疾患に費やされる年間コストは3000億ドルを超え、癌や心臓病、エイズをあわせた見積もりを上回っている」


「還元主義者という言葉は、しばしば、揶揄として使われるが、科学は定義からして還元主義的なものなのだ。哲学者ダニエル・デネットがかつて表明したように『何かを説明しないでおくことは、説明の失敗を意味するのではなく説明の成功を意味する』」
私も最近、確信犯的還元主義者でいこうかとよく思う。

「(ルドゥー)基本的に脳は無意識なものだ。進化のどこかで、意識は一つのモジュールとして発達した。それは脳のどこかの部分に接続されてはいるが、脳全体に結びついてはいない」
Yes. That sounds true.

精神分析は引き継がれていく。なぜならば、科学は心についてのより優れた理論と治療法を生み出せなかったからだ。これこそ、フロイトが死んでいない理由である」

「大方の意見は、フロイトは、科学的真実ではないにしても、文学的な真実に達しているという点で一致を見ているようだ。多数の著名な科学者が、これまでの経緯を振り返ってみると、人間の心への深い洞察はその性質上、常に、科学的というよりは文学的なものにならざるを得ないと述べている」


「『あらゆる社会は、宗教的なな神話と共に存在するものだ。もし、神話的なものが完全になくなってしまうと、困ったことになる』とクルースは独り言のように呟いた。『私も、個人的には神話的なものを失ってしまった』しばしの沈黙。『そういうものを持ちたいんだがね』」

「そこに、『容易ならぬ危険の種』があるのだと、ハイマンは付け加えた。『自分の遺伝子を繁殖させるために、自然淘汰によってつくられた道具」としてのみ心をとらえる危険が。経験主義的な「現場の生物学者」として、自分は生物が「仮帆走の船」のごときものであるという印象を受けてきたと、ハイマンは言った。進化心理学者たちは、『われわれの脳を作ってきた長い歴史が、適応に影響を与えたり、選択できる物質にも制限を課した、などという面に充分配慮していない』」

「心理学は結局、一つの統合された科学にはなれなかったし、これからも、その目標は達成されそうにない」
本当?

「(ガードナー)ところで、95%、この数字の出典として私の名前をあげてもいいよ。心理学者たちの95%までが他人の気持ちなど、まるでわかっちゃいない」とガードナーは付け加えた。「彼らは、化学から心理学に流れてくるが、その理由は、化学では才能がなかったからなんだよ」
95% ?

「晩餐後のスピーチで、ドーキンスは、人間の視覚皮質を、限られた情報から「シミュレーション」を構築するバーチャルリアリティ・コンピュータになぞらえた。ハーバード大学での博士論文で視覚に取り組んだことのあるピンカーは、最前列の席からとび上がると、ドーキンスの喩えの欠点を指摘した。つまり、バーチャルリアリティの仕組みは、単なる三次元の情報を二次元に映像に変えるだけだが、視覚皮質はその逆のことをするのであって、明らかに難しいことをやってのけている、というのだ。現代科学の最も辛らつな論客の一人であるドーキンスも、不承不承ながら、その論点を受け入れた」

これは面白い。

ダーウィン説は本質的には、『万物には自然主義的な説明』があると言っているのだ、チョムスキーは詳しく述べ始めた。これは「神の介入」を信じない者すべてが、等しく認めているところだ。難しい点は、その自然主義的な説明とは何であるかを決めることだ。自然淘汰は、
『一定の制約内で形質と特性の分布を決定する一つの要因だ。一つの要因であって、唯一の要因ではない』
ダーウィン自身が、進化の間に非適応性の変化もまた起き得ることを強調していた、とチョムスキーは説明した」

「何人かの批判者たち、中でも名うての左よりの生物学者たち、S.J.グールドとR.ルオンティン、そして(自らは認めていないが)おそらくノーム・チョムスキーも、ダーウィン説に対しては政治的にはっきりと異議を唱えている。彼らが恐れているのは、「nature」に対しての適応論者の説明を認めてしまうと、現代生活の不愉快な側面、たとえば冷酷な資本主義、人種差別主義、性差別主義、国粋主義といったものも、ある程度しかたのなことであり、進化の必然的産物でさえあり、そう簡単には変えられないと信じ込むはめになりはしないか、ということなのだ。
しかし、その反対の理由でダーウィン説に反対している人々もいる。そういった人々は、いくら進化論が現代遺伝学や分子生物学理論武装しても、現実を充分にリアルに説明できないことを恐れているのだ。ダーウィン説は、なぜ、生命がいちばん最初に出現し、なぜ、現在のような経過を辿っているのか語ることができない。科学者たちは、生命をもっと可能性のある、確固としたものに思わせるために、いろいろな補助メカニズムを提唱してきた。その中には、集団淘汰、地球を有機的組織とみるガイア仮説複雑系の理論などがあるが、いずれももっともとうなずけるものではない。素粒子物理学者のS.ワインバーグはかつてこう書いた。
『宇宙は、わかってくればくるほど、無意味なように思われる』
生物の歴史も、同じような警句で表現できるだろう。つまり、生命はわかってくればくるほど、ありそうもないもののように思われるのだ」

このあたりは進化論的哲学者が大好きなところだが、私はさほどの興味はない。

「一部のジャーナリストや科学者たちは、ニューラル・ネットワークが神秘的な力を持っているかのように説明する。だが実際はニューラル・ネットワークは、曲線補間のような不十分なまたは不明瞭なデータを処理するための、昔風の統計的手法を、新奇好みに体系化したものでしかない。その仕組みをきわめて簡単に説明してみよう。顔の二次元画像のような入力が、それぞれがxとyの値を持つ一組の点(すなわち座標)に変換される。データを与えられえると、ニューラル・ネットワークはできるだけ座標にマッチするような曲線(つまり数学関数)を探索する。その関数の各々が、特定の出力、たとえば「虎」あるいは「家猫」などに一致する。さまざまなフィードバック機構によって、このネットワークは、より正確にパターンを認識するよう「訓練」される」

この点は全くそのとおり。要はニューラル・ネットワークでは、ある意味知っていることしかわからない。それを効率よく行うことができはしても。

「(ドレイファス)心理学は小さなパラダイムの寄せ集めみたいになってしまい、パラダイムどうしで、あいつはダメだとけなしあっている」と彼は言った。「行動主義者たちは、正しい答えをもっているようにみえたが、その後チョムスキーがスキナーについてのレビュー記事を書いて、行動主義の息の根を止めた。その後も、ルールと認知主義が正しい答えのように思われ、そして今ではニューラル・ネットワークが登場している。単なる流行にすぎん。あっち行ったりこっち行ったり。心を理解するという面では何の進歩もありゃせん」

ブルックスは、あらゆる学習プログラムは、どこかで、超えることのできない壁に突き当たると述べた。
『どうも、決して完全には手が届かない、理論的に最大限の適応度というものがあるらしい』と彼は言った」

反対に一票。理由:YC3.6の存在が反例である。

「この分野のまさに走りの頃だった1950年代に流行った二つが、サイバネティクス情報理論だった。その後、カタストロフィ理論、フラクタル、カオス、そして複雑系が続いた。『こういったものが、熱狂的なうなりを見せている。一定の条件化ではうまくいくだろう』とミンスキーはあるとき僕に語った。しかし、脳が実際にどう動いているかを理解するためには『メタ理論を乗り越えていく必要がある』」

それはたぶん理論体系としての「renormalization」のようなものになるのだろうか?

「ラスムセンは、自由意志の概念は「下向きの因果関係」で説明されるだろうと提唱した。科学の説明では、よく因果関係は「上向き」にしか起きないと考えられている。つまり、一つの系の大規模な振る舞いは、その最も小さい部分部分の振る舞いによって決まるものだとされている。しかし、因果関係は下向きにも起きる。つまり、心のような創発的な現象は、それを作った小規模のプロセスとはある程度無関係なものであり、下位のプロセスに対してトップダウン的な制御さえできる。つまり、自由意志があるというわけだ」

「下向きの因果関係」とは本当のところ何か。トップダウン的なモデル構築のことか?たぶん違う。