エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

マヨラナニュートリノには時間の矢がない

先週、「風立ちぬ」を見て、昨日、内田樹の評を読んでもういちど観に行こうかと考えている。


ジョアオ・マゲイジョの「マヨラナ 消えた物理学者を追う」を読む。

マヨラナ 消えた天才物理学者を追う

マヨラナ 消えた天才物理学者を追う

フェルミが率いたパニスペルナ研究所にいた異端の物理学者。書いたのが光速変動理論のジョアオ・マゲイジョ。この組み合わせは奇妙な正統派と言える。

ムッソリーニがいたころのイタリアで30歳そこそこで失踪したマヨラナはいろいろな意味で私には理解できない。でも、ジョアオ・マゲイジョが強く引きつけられたことはよく理解できる。ディラックとマヨラナは物理の歴史上まれな理想的なcompetitorsであり、その決着はまだついていない。

「基本的に、エットーレがとったのは相対性原理―この宇宙に特権的な観測者はいないということ―だけを頼りに説を導くという大胆な方策であり、彼の方程式では電子を記述する必要もなく、スピンをもっていて、相対性理論と矛盾しないものが記述されていればよかった。電子は最後の段階で、その「何か」の一つとして必要になるだけだった。もっと数学的に言うと、エットーレはローレンツ群の無限次元表現を考えたのだ。実際、エットーレがやったことは、ディラックの方法よりも一層直接的な『相対性理論量子力学を統合するもの』だった。1927年のディラックがエットーレの示した道をたどらなかったのはいささか意外だとさえ僕には思える」

「エットーレの論文の問題点はあまりにも時代に先んじていたことである。これこそ彼が果たした仕事の中で、もっとも末永く残るのではないかと、僕はひそかに思っているくらいだ。エットーレの理論は統一を果たすための宝である。そして僕らはそれを切実に必要としているのだ」

「エットーレのニュートリノはさらにひどい。反対のものを重ね合わせられる量子の力が可能にした、反対向きの時間の矢の重ね合わせというとんでもない代物だというのだから。マヨラナニュートリノには時間の矢がない。このニュートリノはそれ自体に両方の時間方向を含んでいるからだ」


昨年出たディラックの評伝も重い作品だったが、このマヨラナの評伝もまったく別のじわじわくる衝撃がある。一方で奇妙に空疎でもある。

「その説によると、スタンダールは自分の早熟さを強く恐れるあまり、時間と才能をできる限り浪費して、天性の才能の表出を遅らせるように無駄な努力をしたのだという。『スタンダールと同じように、マヨラナもなしとげなければならないこと、なしとげずにいられないことを、わざとなしとげないようにする』とショーシャはエットーレについての本のなかで書いている。パニスペルナの青年たちは非常に研究熱心で、誰にも負けない熱意と耐久力を備えていたが、彼らが『探し求めている』のに対し、エットーレはただ『見つけてしまう』のだった。しかし、そのような奇跡には代価が伴った。エットーレは啓示を受けるたびに、死と自己破壊を予感していたに違いない。啓示はあまりにも強烈で、不吉さや不気味さを感じずにはいられなかった。こうした心情の人間にとっては、ノーベル賞級の研究を投げ捨てることも、むしろ自衛行為だったのではないかとショーシャは書いている」


それにしてもジョアオ・マゲイジョの表現にはスタイルがある。たとえばこういうくだり:

「単純化しすぎではあるけれど、詩的な表現として許してもらえるならば、こう言っても差支えないと思う―1930年代初頭には、原子核物理学はすでに一点を除いて収まるべきところに収まったいたのだと。その問題の一点が、ベータ崩壊のエネルギースペクトルだった」


「たとえ実験でニュートリノマヨラナ粒子だとわかっても、これから100年先までには、エットーレの理論がやはり未熟な推量でしかなかったことが、また新たな実験で実証されるにきまっている。真実はいつだってもっと深く、もっと複雑で、僕らの小さな一歩など、後知恵の恩恵があれば、つねに愚直で、つねに未完成に見えるのだ。その意味では、ニュートリノは決してマヨラナ粒子ではありえない。ディラック粒子でもありえない。ほかの何ものでもありえない。答えのなさは、この本の結末のことだけではない。それがこの科学というゲームの異名なのだ」