エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

意味、暴力、神

秋らしい一日で日差しが透明。


村上靖彦の「レヴィナス 壊れものとしての人間」を読む。


あまりに内田先生がほめるので、『全体性と無限』を買ってきて、積ん読しているのだがまことに手ごわい。
というか、どうも理解のきっかけがつかめない。体質が違うのかと考えていたところだったのでちょうどよい本だった。キーワードは「狂気」ということなのだと思う。

「西欧哲学が知能が高い男性が自分をモデルに意識や行為を内省して作り上げた主体概念を提示してきたのに対し、レヴィナスは極度の外傷を背負い、狂気に触れる眩暈において主体を見出そうとした」
つまりは、「哲学」というスタイルではレヴィナスは理解できないということのようだ。


レヴィナスが描き出した<倫理>は、実際に他者と出会うための潜在的構造である。ある程度健康な場合は身代わり、絶対責任のようなレヴィナスの妄想的な倫理はそのままでは現実化しえないが、しかし現実の人間関係にも残響を残す構造であるとみなされる。それゆえに全ての人を貫く普遍的で超越論的な構造なのであり、かつこの超越論的な構造と具体的経験の間の繊細な浸透が、<倫理>と呼ばれているのである。現実世界の倫理もまた、精神疾患と同様にこの「基本構造」としての<倫理>の経験的な痕跡の一つである。その意味で、レヴィナスが描き出した<倫理>という構造は、経験的な現実の背後で潜在的に作動し、疾患やある種の道徳的な状況で間接的に顕在化するような構造なのだ。こうでもしないと他者とは出会えないとしたら、そのこと自体が病的であるが、おそらくは幼いときから離人感を持ち、ショアーを潜り抜けたレヴィナスという哲学者が見出した極限の条件なのであろう。
 言い換えよう。もしも身代わりが主体の想念の水準にとどまってしまって実際には他者とコミュニケーションを取ることなく閉じたとしたら、そしてその一方でこの無限責任を実際に現実化しなくてはならないと思い込んだら、これは病的な症状としての妄想である。逆に言うと、他者への無限責任が現実化したときにはもはや実際には他者と出会えない。しかしもしも身代わりのロジックを、そのまま実現はできないけれども他者と出会う場面へとつなげることができるとしたら、このとき主体と対人関係は創設されうるのである」

これはどういう思想なのだろう。「わかる」という気がしない。これは「信じるしかない」代物なのかと思って読み進めると、こういう記述が出てくる。

「私はメシアとならなくてはいけないが、自称メシアとなった途端にそれは僭称の偽者あるいは統合失調症の誇大妄想である。自分がメシアとして世界を救うというのは実現し得ない大ぼらである。しかしたとえ偽者だったとしても私は自称メシアとならなくてはいけない。論理的にも不可能な「メシアとしての私」をレヴィナスの思想は要求するのである。レヴィナスはメシアを自分自身へと内在化することで、外傷に対抗するロジックを組み立ててゆくことになる」

「ここでは一つの仮説を提示する。レヴィナスは単にユダヤ教の伝統に養われて宗教について考察した哲学者なのではない。彼は「宗教哲学者」ではない。むしろ新たな宗教の創設者なのではないか。ユダヤ教の伝統を背景に、しかしそれとは異なる宗教運動を創設した「教祖」なのではないだろうか。レヴィナスは破壊寸前だったユダヤ教の伝統に帰ろうと努力することで、ユダヤ教の伝統に潜在的に胚胎していた要素を浮き彫りにしようとしたが、結果レヴィナスは新たな形の宗教性を創始した。救済の観念を持たない信仰のない宗教、神が死んだ後の宗教である。この観点からすると、『存在の彼方へ』は新しい宗教のマニフェストであることになる。この作品は哲学書であると同時に真正な宗教書である」

ここまでは何とかわかった気がするが、こういう風に考えることが「意味」を考えることなのだと言われるとまたわからなくなる気がする。


レヴィナスの哲学は「意味とは何か」「いかにして意味を確保するのか」という問いに貫かれている。「意味」といっても単語の意味内容のことではない。価値に近い意味での「意味」をレヴィナスは問い続けているが、その到達点が他者の切迫のなかで生じる私の個別性である」

「意味と無意味がレヴィナスの最も重要なモチーフであることを考え合わせると、レヴィナスにとってはこれが人間性の最後の砦、最終的な核であり、これがなくては「人類」と呼びうるものがなくなってしまうであろう」

これはつまり、私には「他者」がわかっていないということなのか。