エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

仏教における愛の否定

今日の午後は学生達を自宅に呼んでの忘年会。午前中は賀状書き。絵に描いたような年の瀬だが、今年やることはまだまだ残っているのも例年どおり。


呉智英の「つぎはぎ仏教入門」を読む。

つぎはぎ仏教入門

つぎはぎ仏教入門

私は、呉智英を「世間の枠を取っ払って考えることのできる人」として興味を持っている。一方で人間味のあるバランスのとれた考え方ができることは、例えば「現代人の論語」で描かれている孔子の像に見て取れる。

呉智英は釈迦を描いてみたいと思ったのだろう。それは、梵天勧請における釈迦のエゴイスティックとも見える姿を切れ味のある文章で描くところに感じられる。でも普通の仏教にどっぷりつかっていた私には実はあまりぴんと来ていなかった。

たまたまこの本を読んだ2日後に、百田尚樹の「永遠の0」を読んだ。いい小説だったが、この本を読んだことで、「つぎはぎ仏教入門」に出てくる釈迦の姿の意味がようやく見えてきた気がする。「永遠の0」では戦争と愛(平和)が対置されている。話の流れはうまくできていて百田尚樹の腕力を感じるが、それでも枠組みは戦争と愛であり、私たちの理解できるものである。釈迦にとっては戦争も愛も執着であり、それを執着として一緒くたにまとめて、その対極に無我や覚りを置いた。そういう極限を呈示することが宗教家だという呉智英の気持ちがはじめてストンと腑に落ちた。

宗教が同時に倫理でありえるのはキリスト教イスラム教を見れば常識的な話に思える。だからこそ、ダネットは「解明される宗教」を書いたのだろうし、そういう宗教の発生はある種の進化の論理で説明できそうである。しかしながら、釈迦の仏教は宗教ではあるが、倫理ではありえない。科学はいつかキリスト教の誕生を説明できるかもしれない。そのときにも、仏教の誕生が科学の射程の中には入りえないだろうと感じられる。

「まことに身勝手なまでの、家族なるものへの不信であり、嫌悪である。家族になんらかの落ち度があるのならともかく、釈迦の両親にも、妻にも、まして子供には何の落ち度もない。それをかくも強く拒む身勝手さは、常識的な社会倫理を超えており、それ故にこそ人々を圧倒する不条理な魅力がある。釈迦が宗教的、思想的な天才である所以だろう。
釈迦のこの身勝手さは、無慈悲にさえ感じられる。自らの覚りのためには平然と家族を捨て、自分が妻に生ませた子供を光明を遮る蝕魔とさえ名づけるのだから。これが前にも述べた梵天勧請における釈迦のエゴイスティックな姿勢に通じるのは言うまでもないだろう。
宗教に現世利益か常識的な人生訓を求める人たちは、この釈迦の真の姿に目を背けるだろう。仏教の歴史は釈迦のこの姿をオブラートに包む歴史でもあった。また近代人も近代的倫理観からこの釈迦の姿を拒むだろう。
しかし、近代以前、むしろこの真の釈迦の姿がかなり正しく認識されていた」

「しかし、仏教は有利不利で成立しているのではない。釈迦は有利不利で覚りを開いたのではない。たとえ不利であっても、教義、信仰を守っていかなければならない。そうでなければ宗教として意味はない。
だが、昨今仏教は愛は欲望であり衝動であることを隠そうとしている。キリスト教に遅れをとっているので、それを挽回しようとする姑息な対応である。これは根本的に間違いである。それよりも勇気を持って仏教における愛の否定を果敢に説くべきである。現在、文明論的に見て、愛一元支配とも言うべき時代になっている。これが人間の思考を単純化し硬直させている。そうした状況を克服する契機をキリスト教文明の側では提起できないのだ」

そうして釈迦が呈示する真理とは「無我」であり、これもまたとりあえず極北とでも形容するしかあるまい。

「世界が永久に続くという見解があるときにも、また、それがないときにも、あるいは、世界に果てがあるという見解があるときにも、また、それがないときにも、やはり、生はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、いまこの現世においてそれを克服することを教える」

「執着の根源にあるのは、『無限に永続する自我』という迷妄である。それはまた『他ならぬこの私である私』という自我、すなわち『魂』である。それは今の対話にすぐ続く対話で明確に否定される。
ミリンダ王は問う。『尊者ナーガセーナよ、霊魂の存在は認めれれますか』
ナーガセーナは答える。『大王よ、勝義(最高の意義)においては、霊魂の存在は認められません』
すべては縁起によって連続して生起する『事』であり、実体としての自我も霊魂もなく、すなわち『無我』なのである」

「この『無我』は仏教において極めて重要な思想であるにもかかわらず、いや極めて重要な思想であるからこそ、仏教史の展開において難問を抱え込むことになる。すぐあとで詳しく述べるが、第一に、覚りの主体に関わるからであり、第二に否定したはずの梵我一如(宇宙と自我の合一)の思想には効し難い魅力があることであり、第三に、『自我の時代』である現代に仏教は何を訴え得るかが問われることになるからである」

「釈迦は実体のない『我』への執着から覚めよ、と説いた。しかし、第一章で述べたように、そもそも宗教は『有限な存在である我』への不安から始まっている。人は誰もが『無限にして恒常不変の確固たる我』を求める。それに応えて、ある宗教は、神に許しを求めて帰依せよ、と教え、またある宗教は、神に捧げものをしてご機嫌をとれ、と教え、またある宗教は、神のもとで修行を積み能力を高めよ、と教える。そうすれば、病気が癒え、幸運が訪れ、永遠の生命が得られる、というわけだ。いわば、有限の我を無限の我に変じさせ、実体のない我を恒常不変の我にしてくれる、というのである。だが、仏教の説くところはこれと正反対である。我はそもそも有限であり、我はそもそも実体がない、と説くのだ」