エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

錨の役割を果たしたい

スポーツクラブへの行き帰りの道にさるすべりの赤い花が咲いている。今日はそろそろ散り始めで赤い小山が続いている。


サテル&リリエンフェルドの「その脳科学にご用心」を読む。

その〈脳科学〉にご用心: 脳画像で心はわかるのか

その〈脳科学〉にご用心: 脳画像で心はわかるのか


後期の大学院の生命倫理の授業で脳神経倫理という名前のコマを担当している。これでたぶん5回目だ。
対象としている学生にはほとんど認知神経科学の知識がないので、そのあたりのことをひととおり説明した上で
脳神経倫理の話に入るという組み立てで5回やってみているが、講義の後のレポートを見るとfMRIの高度画像解析の
データでいろいろ推測できるという話に強い印象を受けるあまりに間違った刷り込みをしているのではないかと思ってしまう。

今年はそのあたりのバランスをとりたいと、このサテル&リリエンフェルドを読んでみた。
著者たちは、この脳画像法・ニューロマーケティング・神経法学の力強いうねりにさらわれないように
錨の役割を果たしたいというのが執筆動機だと書いている。


たとえば脳画像法の鮮やかな絵は非常に説得的だが、データ処理が不適切だととんでもないことになるのはほかの実験手法と何も変わらない。たとえばこういうこと。

「ヴァルの批判は多くの点で専門的だが、要点は簡単に理解できる。統計的に有意の関連性を探して膨大な数のデータを調べてから、見つかった関連性だけをさらに分析すると、何か「有効なもの」が出てくるのは、ほぼ請け合いであるということだ。この誤りを避けるためには、二度目の分析は最初の分析とは完全に独立したものでなければならない。この誤りは「循環分析問題」や「非独立問題」、もっとくだけた言い方では、「double dipping」など、さまざまな呼び名で知られている」


また、今の脳画像法全盛の時代は、かなりの意味で政治的産物であることが説明されている。確かに1990年代半ば以降のアメリカでの薬物中毒に関する研究の隆盛や(アメリカの雑誌での)報道のされ方は今思うと不自然だったかもしれない。

精神科医のジェローム・ジャッフェは大統領の薬物対策の顧問をはじめた務めた人物で、「脳の疾患」モデルの採用は戦術上の勝利であり、同時に科学の敗北でもあると見る」


一番大事なのは、「脳よりも”心”」だというのがこの二人の著者の結論で、私も講義のためにいろいろ考えてきてかなり同意できる。一方で、それを理系の学生にうまく伝える言葉がなかなか見つからないのも事実なので困ってしまう。今年も悪戦苦闘しよう。

「もしほとんどの人が自分も他者も自由意思を持っていると考えたらどうなるだろうか?いよいよ、私たちは問題の核心にたどり着いた。すなわち、人間が物質的世界に行きながら、なお道徳的責任を負うことは可能かという問題は、実証不可能なのだ。というのも、科学的な問題ではないからだ。これは概念的・道徳的難問であり、古代から思想家を悩ませ、いまだ解決をみていない。だが安心してほしい。私たちの目的はここでその難問を解くことではない。実際のところこの問題を解くことは不可能だろう。私たちがここで明確にしたいのは、脳科学もまたこの問題を解決していないという点だ。
 たとえば、受刑者をより効果的に更生させたいのなら、新たな治療法に関するデータは不可欠だ。この点については、脳科学は指針を示せるかもしれない。だが、道徳的理由から応報の実践をやめるべきか否かは、脳科学を含め、科学がこたえられる問題ではない。ところが実際に歴史を振り返ると、生物学を用いて社会変革を目指すという、不毛で、ときに残忍な試みの例は引きも切らない。昔も今も、科学だけに基づいて倫理体系を構築できると考えるのは重大な誤りだ。この「道徳」と「実状」の混乱は、哲学では「自然主義的誤謬」と呼ばれる」