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小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

統計屋としての静かなプライド

明日から神戸での学会だが、午後には台風が来るとニュースで言っている。


デイヴィッド・サルツブルグの「統計学を拓いた異才たち」を読む。

統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀

統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀

副題は「経験則から科学へ進展した一世紀」とある。これだけ見るとそのあたりにある例の統計本に思えるが、これは掛け値なしの名著だと思う。

サルツブルグが書きたかったのはまず
「統計革命とは本当は何だったのか」ということだと思う。

もうひとつあるとするとそれは
「確率は実生活においてどんな意味合いを持っているのか」
ということだろうか。


サルツブルグは統計革命の本当の源泉はカール・ピアソンにあると書いている。

「100年以上も前にカール・ピアソンが提案したのは、すべての観測値が確率分布に起因することや、科学の目的がそれらの分布の母数を推定することだった。それ以前は、宇宙はニュートンの運動法則のような法則に従っており、観測されたものの明らかな違いは誤差によるものと科学の世界では信じられていた。次第にピアソンの見方が優勢を占めるようになってきた。結果として、20世紀に科学的方法のトレーニングを受けた人は誰でもピアソンの見方を当然のものとして受け止めている。現代科学のデータ解析法があまりにもしっかり浸透しているので、あえてはっきりと口にする必要などないのだ。今の科学者や技術者の多くは、この見方の哲学的な影響など考えることなく、これらの手法を用いているのである」


では、その統計革命はその本質的な姿で広がったのか。サルツブルグは残念なことにそうではないと言う。

「統計革命の表層的な考え方が現代文化へと広がってゆき、ますます多くの人々がその背後にある仮定について考えることなく真理と思うようになった」

したがって、サルツブルグは倦むことなくこのことを問い続けなければいけないとする。

「コロモゴロフの最終問題はこうだ。『確率は実生活においてどんな意味合いを持っているのか』。彼は、満足のいく確率の数学理論を構築した。しかしこれは、確率論の定理と手法が内部的にはまったく自己矛盾のないことを意味しているにすぎない。科学の統計モデルは、単なる数学の領域を飛び越えて、それらの定理が実生活の問題に適用される。そのため、コロモゴロフが確率論で示したような抽象的な数学モデルを、実生活のある局面と結びつけて考える必要性が出てくる。事実、このために、文字どおり数百の試みがなされてきた。だが、そのどれもが、実生活における確率に異なった意味を与えているために批判も受けている。
 この問題は非常に重要である。なぜなら、統計解析の数学的結論の解釈は、これらの公理をどのようにして実生活の状況に結びつけるかにかかっているからだ」

あるいはこうも表現されている。

「宇宙の統計的な見方における3つの哲学的問題を考えてみよう。
1 意思決定に統計モデルは利用できるのか?
2 実生活に応用する際、確率の意味は何だろうか?
3 人々は本当に確率を理解しているのか?」

「不幸なことに、内的整合性のある仮説検定の数学的アプローチを開発するためにネイマンは、フィッシャーが絨毯の上に追いやった問題を扱わなくてはならなくなった。これがネイマンの巧みで純粋な数学的解決にもかかわらず、仮説検定を苦しませ続けている問題であり、また一般に統計的手法を科学分野に適用する際の問題でもある。より一般的には、次の質問に集約できる。『実生活に確率を当てはめた時に何がいえるのか』」


このように書き並べるとあたかも哲学書のような印象があるかもしれないが、この本は全くそのようなものではない。

統計学を拓いた異才たち」というのはまさにタイトルどおりで、『異才』のオンパレードで呼んでいて実に楽しい。t-検定のStudentがどこに由来するのか、あるいはベイズには2つの定式化、すななわち「ベイズの階層モデル」と「個人確率」がある、といったことがすんなりわかるように書いてある。おそらく著者の誠実さがそのわかりやすさを生んでいるのだと思う。


例えば以下の記述は、統計屋としての静かなプライド、学問の職人としての誠実さが如実に現れていると思う。

「私の経験からいうと、数学モデルを使って問題を定式化しようとすることは、実際のところ何が疑問とされているのか、科学者に理解するように強いることにほかならない。利用できる手段を入念に検証することで、それらの手段ではそうした疑問に答えられないという結論に達することもしばしばある。私がまがりなりにも統計学者として貢献できたのは、適切な手段が揃わないために失敗に終わりそうな実験をしないように思いとどまらせたことだろう。たとえば臨床研究で医学的な疑問が提起されたとして、数百人、数千人の患者を巻き込むような研究を必要とするとき、その疑問に答えるだけの価値があるかどうか考え直すべきである」

統計学の本を読んで楽しいと思うことがあるとは思わなかった。