エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

存在論の帝国に外部はない

シベリア高気圧がやや後退したらしくて暑さも一服。

内田樹の「他者と死者」を読む。

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)


レヴィナス本の2作目。「レヴィナスと愛の現象学」とは難度が全く違ったので、読了するのに一カ月以上かかったと思う。最大の難度は「言葉の意味がわからない」。「わからないまま読書する」というのは(ほとんど)全ての理系専門家には慣れた作業のはずなのだが、それがなぜか難しい。ようやくある程度腑に落ちたのは4章に入ってからだが、それは要約不可能なので、原文を当たってもらうしかないだろう。

「わからないまま読書する」ということにはいろいろメリットがあり、これがないと専門レベルの本を読むのが著しく困難になるのだが、その意味はたとえばこういう例でわかる。

「何だかわからないもの」がなんであるかとりあえず決定する。というより機械には「決定しない」ということができない。しかし、人間は何かを見たけれど、それが何かを「決定しない」ということができる。「何時何分。経度緯度、しかじかの物を確認す」とだけ航海日誌に書き記すことができる。「それが何を意味するのか分からないものが、ある」ということを受け入れられるのは人間の知性だけである」


「死者たちのことばをどう語るのか」はヒトにとって大事であるが、場合によってはこういうことになるということを初めて理解した。

「死者たちのことばは『永遠に残響する叫び声』であり、それを記録したり分類したりカタログ化したりすることは私たちには許されない。生き延びた者に許されているのは、その叫び声の中に、『思考』を聴き取り、それを、『あの時代を生き残った私たち一人ひとりがそこにめまいのするような既視感を覚える種類のフィクション』として語り継ぐことだけなのである。
それ以外の証言の仕方は、ラカンの言ったとおり、『死者たちが許さない』。だから、生者たちは、『召喚するもの』ではなく、『召喚される者』として自らを位置づけることになる。死者たちを生者の法廷に呼び出して、その証言を語らせるのではなく、生者たちが、『死者たちの陪席する法廷』に呼び出されて、そこで自らの有責性についてベ弁疏することを求められるのである」

これに比べると、「エンダーのゲーム」のW.S.カードはささやかなものだと思う。カードはモルモン教徒だったと思うが、果たしてレヴィナスの問題意識があったのか。そもそも「エンダーのゲーム」は何のために書かれたのか。


存在論の帝国に外部はない。
なぜなら、『ある/ない』という二元性そのものが存在論だからだ。『存在論の帝国に外部』が『ある』という言い方をした瞬間、その命題のすべてが存在論に回収される。全体性のエコノミーのうちにある限り、『私』は、非―私であるすべてのものを名づけ」、支配し、整序し、享受し、消費し、廃棄するという他動詞的な能作に耽っている。この私の自己中心的なあり方をレヴィナスは『暴力』と呼んだ」

こういう意味の暴力というのは言われるとわかるが、制御しがたい。

この勢いで行くと、レヴィナス本の3作目が出るのはいつごろになるのだろう。