エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

「陽の当たる場所」への権利請求を自主的に撤回すること

Desernoから8月でOKとの返事が来て、日程のやりくりが楽になりほっとする。


内田樹の「レヴィナスと愛の現象学」を読む。

レヴィナスと愛の現象学

レヴィナスと愛の現象学


自閉症現象学」を読んでいる間、何度かレヴィナスへの言及があったが、本人の本はかなり難解なので、準備体操がわりにウチダ先生の本を読む。

という軽い気持ちで寝ころがって読んでいたのだが、終盤で衿を正す。

「一人一人がおのれの「存在する権利」、「大地を占有する権利」を声高に主張することを止め、「陽の当たる場所」への権利請求を自主的に撤回すること、それ以外に相剋のドラマを終わらせる方途はない。この点についてボーヴォーワールの考え方はレヴィナスと大差はない(というより、誰が考えてもそれ以外に選択肢はない)」

「『有責性の引き受けにおける優先権の請求』という考想は、レヴィナスにとっては倫理を基礎づける根本的考想であり、これは別の文脈では「選び」とも呼ばれる。「選び」とは何らかの特権や利得を優先的に獲得することを指すのではない。その逆に、人に先んじて苦しみ、人に先んじて罰を受けることを言うのである」

これはザンデルあたりが語っている軽薄アメリカ倫理学とは明確に異なる思想であり、この根がどこにあるかを考えることは倫理学の課題であり、さらには神経科学の課題と受け止めるべきであろう。この一点を忘れた神経科学は魂を忘れた学問となり、ついにmind-body problemを解決することはできないであろう。


現象学について

哲学史的に言えば、フッサール現象学デカルト省察をいっそう精密化させたもの、と言うことができる」

これは言われれば当たり前のことだが全く気づかなかった。

「20台半ばのレヴィナスは、ここで彼の思念を生涯去ることがなかった哲学的な問いを定式化することになったのである。
「ひとはいかにしておのれ自身の外へ出て、他者に出会うところができるのか」」

「その試みの成否は措くとして、レヴィナスは「神の現象学」がありうるし、あるべきだと考えていた。「未知のものである絶対的なもの」を既知に還元することのない、「別の思惟」、「同化吸収でも統合でもない思惟」がありうると考えていた。
このとき、フッサールは「絶対的に非規定的」であり、「ほとんど対象の不在に等しい」何ものかを「目指す」能作を「見る」および「つかむ」という動詞に託した。レヴィナスは「意味はあるが、見ることも、つかむこともできぬもの」をなお「めざす」ことのうちに現象学の面目は存すると考えた」


○神について

「<唯一なる神に至る道程には神なき宿駅がある>

この「神なき宿駅」を歩むものの孤独と決断が主体性を基礎付ける。このとき、主という「他者」との対面を通じて、アブラハムは「誰によっても代替不能な有責性を引き受けるもの」として立ち上がる。このようにして自立したものをレヴィナスは「主体」あるいは「成人」と名づけることになる」

「<不在の神になお信を置きうる人間を成熟した人間と呼ぶ。それはおのれの弱さを計量できるもののことである>

「神なき世界にあって、なお善く行動することができると信じるもの」、それが真の意味での主体である」」


○その他

「しかし、経験的に言って、レヴィナスに限らず、テクストを読むとき、読み手はどこかで「私」であることを止めて、テクストに固有の「知の周波数」に同調してしまうことがある。そのときの状態は「テクストを私が読んでいる」というよりは「テクストに沿って私自身が分節されている」というのに近い」

「『他者』のうちに無限を見出すという「命懸けの跳躍」をよく果たしえないものは、テクストのうちに無限を見出すという『命懸けの跳躍』もやはりよく果たすことはできない」

「情報を収集することと、ものを考えるということとは違う。ものを考えるためには訓練がいる。その訓練は身体的な修練だと思った方がいい(三浦雅士)」

「『他者』が『私』に相関する概念であるならば、「私」がどのようなあり方をするかによって、「他者」のあり方も変わってくる」
「具体的な生の意味は、観想や表象では掬いつくすことはできない。レヴィナスは観想に偏った「直観作用」に、「意味作用」を対置する」

「最後に一つだけ聖書から象徴的な聖句を引用して打ち止めにしておこう。
<そのとき神が「光あれ」とおおせられた。すると光ができた>
光より先に音がある。音こそが光の起源である、という考想は、聖書のもっとも古い教えのひとつだったのである」

「私の知覚に「直接的に現前するもの」「根源的呈示」と「間接的に現前するもの」「間接的呈示」を区別すること自体あまり意味がないのである。この二つを別のものと想定するからこそ、私たちは「なぜ私は他我の主観性に架橋できるのか」という根源的アポリアに遭遇してしまうのである。それらは実はあわせてひとつのものなのである」

「他者問題を解決するために、フッサールは「どのようにして自我は他我に到達するのか」というふうに問いを立てることをしなかった。そうではなくて、自我における根源的に主観的な経験とされるもの自体が、すでに間主観性の経験に基づいてしかありえない、という仕方でこのアポリアをみごとに回避したのである」

「人間存在の独自性は、「私は私である」という同語反復によってではなく、「私は…で生きている」という「他なるもの」への依存、他なるものの享受としう仕方で確保される。「私」」は「非−私」を享受するという機能においてはじめて「私」なのである」