主客の一致という謎
入梅。隣の家も前の家もあじさいの盛り。北鎌倉のあじさい寺が懐かしい。
- 作者: 竹田青嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/03/09
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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松岡正剛のブログでミラーニューロンの本を紹介していて、リーダーが、データの解釈や実験の方向性を考えるために、現象学の間主観性の話などを勉強していた、ということを書いていた。現象学はいろいろ気になっていたが、入門書に書いてあることはかなりばらばらだし、日本語訳でも原書はさっぱりわからないし、長いこと縁がなかった。たまたま図書館でこの本を見つけて、目次が気に入って借りてきたら当たりだった(と思う)。
現象学の目的とは、「『主観―客観』の一致は原理的に不可能である」というデカルトによって提出された「主客の一致(不一致)という謎の解明という一事に尽きる。
「哲学的思考は、この問題(主客一致)を解明すべき使命を持つが、それはただ、本質的な「認識批判」によってのみ可能になる。「主客の一致」を前提とする自然的学問がこの「謎」を解き得ないことは自明である。哲学的思考だけが、そして、現象学の方法だけがこの問題を解明できる」
「哲学から出発した近代の諸学は、「主観―客観一致」の構図の誤りに気づかず、これを前提としたために、この図式から現れる「事実学」を超え出ることができなかった。したがって、哲学を本質学としてもういちど立て直すためには、「主観―客観」の一致を暗黙の前提とする近代認識論を根底的に批判し、認識の本質的理論をその基礎として置きなおさなければならない」
「自然的学問は、そもそもこの問題(主客問題)を適切に設定することができなかったが、このことが現在の人文科学における大きな混乱、つまり唯物論対唯心論の対立、心身二元論、心理主義といった近代諸学問の難問の根拠となっていたのだ。「認識の謎」の解明こそこれらの難問を解決する。
認識の本質論を打ち立てることは、単に自然的諸学における認識批判という課題だけでなく、結局のところ、哲学の本義である存在の意味の探求の最も本質的な基礎となるだろう」
「主客の一致」とは意識の謎に他ならないし、mind-body problemとも通底している。この部分を読んだあたりで、少し腰を入れて読もうと思った。
エポケーについてこれまで単なる「括弧に入れること(判断停止)だと思っていたが、どうしてそんなものではないらしい。
「人間の認識の仕組みについての本質的な「認識」は、これまでの自然的学問の認識や知見を一切援用することはできない。それは認識批判の哲学(=現象学)独自の方法で行わなければならない」
「この根本的に新しい方法と領域とを、フッサールは「認識論的還元」(現象論的還元)の領域と呼ぶ。これが「事実」の領域ではなく、「意識の本質」の領域であることを理解することがなにより重要だ。「還元」とは、一切の「超越的なもの」(客観とみなされているもの)をいったん「排去」すること、「無関心」「無効」などの符号をつけること、つまり客観が存在するという自然な措定を取り払って考えることである」
竹田青嗣のよいところは、フッサールの現象学は、「主客の一致」「内在と超越」という2つの概念を押さえればよい、と言い切っているところだ。これでようやく現象学の中身がおぼろげに見えてきた。
「フッサールの現象学的内省(還元)の方法には、本質的に、”誰が行っても<内在意識>における同じ「構造」を取り出すことができるはず”ということが含まれている。だからこそ、そこが「絶対的確実性」の領域だとされるのだ。あるいはむしろ、<内在意識>の本質看取とは、”意識体験において、誰にとっても同じ構造として見出されるものを取り出せ”ということを意味するのである」
「フッサールの認識批判は、「主観―客観」一致図式自体の批判であり、いかに「正しい認識に達するか」という問いの代わりに、われわれの(主観的、間主観的)「世界確信」の強度と確度の構造を理論化するものだった」
本の中でカントの認識批判やヘーゲルの話も出てくるし、この本で現象学の目的と基本構造がおおよそはつかめたような気がしてきたので、次はカントとヘーゲルということになる。