エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

ミラーニューロンの発見

M2の学生さんにやってもらっている仕事が面白いところに来ている。ただ自分はその方面の本当の専門家ではないので、directional adviceをもらうために、学生さんと精神・神経センターまで出かけてHさんとじっくり相談してきた。

自分たちでも意外なことに、Hさんやそこの2人の室長さんからはこの仕事を非常に高く評価してもらえた。「あとひとつキーになる実験で納得のいくデータが出ればJNSは行けますよ」というのがHさんのコメント。それは自己評価よりは随分高かったらしくて、学生さんはすごく喜んでいた。

実は難しいのはその先だ。in vivoのデータをとるための共同実験を大阪市大のK先生と立ち上げようとしているところだが、in vivoだけに2,3ヶ月で結果がでるかどうかはかなり不透明だ。いろいろ状況証拠はそろっているが、こちらが望むようなデータが出るかどうかも、もちろんやってみなければわからない。

in vitroのきれいな話でJNSを狙うか、ここで腹を据えてin vivoを進めてワンランク上の雑誌を狙うか。近いうちにそれを決めなければいけない。学生さんにとっては最初の論文になるので、少しでもいい出発をさせてやりたいのは人情だが、その情と客観情勢の計算の両にらみになる。昨年のNatureのときは、何しろN先生がauthorに入っていたので、ごく自然にtop journalを狙えたが、今回はボスに相談はするものの、最後の判断は自分でしなければならなくなりそうだ。

マルコ・イアボーニの「ミラーニューロンの発見」を読む。

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)

ラマチャンドランの評するところでは、神経科学における(心理学における)「ミラーニューロンの発見」は、生物学における「DNA二重ラセンの発見」に匹敵するという。

ミラーニューロンは不思議な特性を持った物まね神経細胞である。(前)運動神経でありながら、自分がある行動をとった時だけでなく、他者が同じ行動をとった時も発火する。まさにmirroringである。

この本で「おーっ」と思ったのは、ミラーニューロンを発見した「パルマの4人組」の個性的なことである。特に、「哲学者」ヴィットリオ・ガレーゼ。

パルマの首席「哲学者」は、あごひげを生やした黒い目の神経生理学者、ヴィットリオ・ガレーゼだった。メルロ=ポンティのとょさくを徹底的に読み込み、哲学と神経科学との適切な類似点を見つけて、チームの発見したことを科学的というよりは哲学的な言葉で説明しようとしたのがガレーゼである」
現象学は不思議と神経科学分野でこわもてするが、その理由の一端が分かった気がした。

ミラーニューロンの発見」は「脳=コンピューター説」を葬りさろうとしている。
「人間の心をコンピューターのようなものとみなすこの考えは、約半世紀にわたって君臨した。しかし現在では、別の見方がますます有力になっている。この新しい見方にしたがえば、私たちの心のプロセスは身体によって形成され、その過程での身体運動と周囲の世界との相互作用の所産として、どのような地家苦経験と運動経験を得たかによって形成される。この見方は一般に「身体化された認知」と呼ばれ、これをとくに言語に適用した理論を「身体化された意味論」という」

逆に哲学的には「他我問題」の再検討がまことに微妙で面白い課題だと思う。大森荘蔵ミラーニューロンのことを知っていたらなんと議論したか、想像するとわくわくする。
「西洋文化は個人主義的、唯我論的な考え方に支配されていて、その枠組みのもとでは自己と他者との完全な分離が当たり前のようにできると思われている。私たちはその考え方にどっぷりとひたっているため、自己と他者とが相互依存にあると言われても、直観的に違うと思うばかりか、聞き入れることさえ難しい。この支配的な見方に対抗して、ミラーニューロンは自己と他者とを再びつなぎあわせる。その活動は、人間の原初的な間主観性を思い起こさせる。それはすなわち、赤ん坊と母親、赤ん坊と父親の相互作用に表され、その相互作用の中で発達する、赤ん坊の初期の相互作用能力だ。ミラーニューロンはこの最初の間主観的な時期に形成され、この間主観性によってはぐぐまれるのだろうか?私はそうだと思う」

当然のことだが、分子神経科学的視点では、ミラーニューロンブラックボックスであるらしい。そこが物足りなくもあり、強く惹きつけられる点でもある。