昨日は研究室でバーベキューをしてたくさん食べた。晩御飯が食べられなかった。天気も頃合いで運がよかった。
カール・ポパーの「果てしなき探究」を読む。
- 作者: カール・R・ポパー,森博
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2004/02/17
- メディア: 文庫
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反証主義、批判的合理主義という言葉でまとめられることの多いポパーの科学哲学(科学の方法論)が、どういう背景からでてきたかがじわじわとわかってくるという意味で興味深い。特に、ウィーン学団との関係の微妙なところが少しわかった。
基本は、今で言う『言語主義』に対する若い頃からの徹底した反発と見ていいだろう。20世紀以降の哲学の半分以上は(ヴィトゲンシュタイン以来?)どんどんそっちに行っているわけで、今や欧米の哲学のえらい人はほとんどその流派ということだが、自然科学者にとって、彼らの操るtermは誠に便利であるが、彼らの方法論は日々の研究の指針とはならない。その意味で、ポパーの反証主義は、グレーな研究結果と、(実は)グレーな理論の間でうろうろし続けなければならない日々の研究者にとっての大きな慰めだと思う。
「言葉とその意味についての問題を本気になってとりあげようなどと力んではならぬ。本気になってとりあげなければならないのは、事実の問題であり、事実についてのさまざまな主張(もろもろの理論および仮説)、それらが解決する問題およびそれらが提起する問題である」
批判的合理主義とはほぼこんなところであろう。
「こうして私は、1919年の末までに、科学的態度とは批判的態度であり、この批判的態度は実証を求めるものではなく決定的テスト―理論を確立することは決してできないけれども、テストされる理論を反駁できるテスト―を求めるものである、という結論に達した」
「ベーコン以来まかり通ってきた、科学についての誤った理論―自然科学は帰納科学であり、帰納は繰り返しの観察または実験によって理論を確立または正当化する手続きである、とする説―が、なぜかくも深く根をおろしたのかという理由を私は理解した。科学者たちは自分らの活動を形而上学からと同様にえせ科学から区別しなければならなかったので、彼らはベーコンを継承して帰納の方法を自分達の境界設定の基準としたというのがその理由である」
「物理学の発展が、ほぼ間違いなく、訂正とより良き近似への果てしなき過程であるのも、このような理由による。そして、われわれの理論がまったく真なのでもはや訂正の余地がなくなるような段階にいつの日か到達するとしても。われわれの理論は依然としてなお完全ではないだろう。なぜなら、ゲーデルの有名な不完全性定理が活動し始めるからである。物理学の数学的背景に思いをいたすならば、なんらかの所与の(形式化された)理論において決定不能な問題に答えを与えるためには、うまくいっても、右のような真なる理論の無限系列が必要となるだろう」
最後の点はやや気になる。
http://d.hatena.ne.jp/tnakamr/20120211/1328957134
この本を読んで、不完全性定理の野放図な拡張に懐疑的になっているので、ここまで単純に言っていいのかと思う。
自分の仕事とも絡んで興味深いのは、「理論から自由な観察はない」というポパーの見解である。それ一面で非常に共感するし、ただ実際には何が出てくるか分からない系の観察なしには本当に面白い結果は得られないというのが個人的経験則なので、そのあたりのバランスがやはり難しい。
「全ての観察は、(少なくとも漠然と推測されるある規則性を発見しようとする、あるいは検査しようとする)目的をもった活動である。受身の経験といったものは存在しない。外的刺激によって与えられた諸観念が、与えられるがままに主体の働きなしにおのずから結び合わされるなどということは、およそありえない。経験は生物体の積極的な活動の結果であり、規則性または不変性の探究の結果である。関心や批判、したがって規則性または『法則』と無縁な知覚など存在しない」
「理論から自由な観察はありえず、理論から自由な言語はありえないのだから、理論から自由な帰納の規則とか原理はもちろんありえない。すべての理論を基礎づけるべき規則とか原理といったものは決して存在しない」
自伝の後半で、量子力学、進化論、時間の問題、mind-body problemがとりあげられている。当然その後の研究の進展で、ポパーの見方ではあわなくなっている部分も多いのだが、視点は興味深い。