エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

「無」のリアリティ

昨年の秋、井筒俊彦の「意識と本質」を読んで、禅の哲学的意味を少しかじれた気がした。
http://d.hatena.ne.jp/tnakamr/20080923/1222146172

そうすると、次には「実際にやってみるとどうだろう」と考えるようになり、手軽に座禅ができるとことがないかと探していたら、大学への行き帰りの裏道にある禅寺で週一の座禅会をやっていることに気づいた。とは言え、京都の冬はただでさえ寒いので、本堂で座禅するのはつらそうである。暖かくなるのを待って、ようやく先週の土曜日にでかけた。座禅を組んでみて、いろいろ発見はあったが、井筒俊彦の言っていることとは容易につながりそうにない。仕方がないので、「井筒俊彦著作集9・東洋哲学」を読んで、勉強しなおした。

「禅にとってはるかに重要なのは、神秘主義的な主客未分そのものではなくて、主客未分に当たるような状態を一契機として、主客をいわば上から包み込むような形で原成する全体的意識フィールドであり、そういう全体的意識フィールドの活作用なのである。確かに主も客も一度は無化される。その意味では、主客未分を云々することもできよう。だが本当の問題は、一度無化され、解体された主・客関係が今度は全体フィールド的に甦って、経験的現実として働く、その働き方なのである。そしてその働きの場所は、ただ見聞覚知の現場のみである」

「もっと大事なことは、東洋的哲人の場合、事物間の存在論的無差別性を覚知しても、そのままそこにすわりこんでしまわずにまたもとの差別の世界に戻ってくるということであります。つまり、一度外した枠をまたはめなおして見る、ということです。そうすると、当然、千差万別の事物が再び現れてくる。外的には以前と全く同じ事物、しかし内的には微妙に変質した事物として。はずして見る、はめて見る。この二重の「見」を通じて、実在の真相が始めて顕になる、と考えるのでありまして、この二重操作的「見」の存在論的「自由」こそ。東洋の哲人をして、真に東洋的たらしめるものであります」

やっぱりなかなか難しい。

副産物だったのは、華厳や唯識といった大乗仏教老荘思想での「無」や「空」について、改めて考える機会があったこと。私は、かねてから「空」とはたとえば無意識のようなもので、リアリティを持つものであり、素粒子レベルでの真空が粒子の生滅の場であるのと同じようなものだと思っていたが、井筒俊彦が何度も繰り返して言っていることもほぼ同様(当然もっと深くて美しい)だと思った。

「およそこういう考え方が可能であるのは、先ほど申しましたように、東洋哲学の「無」が、「虚無」ではないからなのであります。「虚無」ではない。「虚無」ではなくて、一切の存在分節以前ということです。もう少し詳しく言うなら、主・客の区別をはじめとする一切の意味分節に先立つ存在未発の状態、根源的未分節の境位における存在リアリティそのもの、つまり存在(および意識)のゼロ・ポイント。それを「無」というのです」
「東洋的世界像の最も顕著な特徴は、第一に意識と物質が峻別されることなく、むしろ逆に両者が互いに浸透しあうような流動性を示す事、次に、そこではいわゆる事物が存在者ではなくて、むしろそれぞれ1つのダイナミックな存在的「出来事」であること。結局、全体としての世界は、こういう数限りない存在的「出来事」の相関的、相互依存的、相互浸透的な網目構造の不断に繰り広げられ、畳み込まれる流動的プロセスとして現れるのでありまして、要するに、それが世界と呼ばれるものの真相である、ということになります」

これを例えば、唯心論的物理学(Quantum Monadology)と並べてみるとなかなか面白い。
http://d.hatena.ne.jp/tnakamr/20090404/1238831537

さて、しばらく週一のペースで座禅会にでかけようと思う。