エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

合理性と合理的な批判を擁護するために

金曜日、仕事を早めに終えて、国立劇場文楽を観に行く。傾城反魂香、艶容女舞衣、壇浦兜軍記。住太夫さんはお元気だったし、吉田蓑助のお園は想像以上に良かった。初夏の夜の爽やかな空気。


カール・ポパーの「フレームワークの神話」を読む。

フレームワークの神話―科学と合理性の擁護 (ポイエーシス叢書)

フレームワークの神話―科学と合理性の擁護 (ポイエーシス叢書)

ポパー自身が序文で「収録された全ての論文は、合理性と合理的な批判を擁護するために書かれた」と書いている。

ポパーが擁護しようとしたものは具体的にはこのようなものである。
「批判的な議論に耳をかたむけ、自分自身の誤りを捜し出し、そしてそれから学ぶ用意を持つということは、ひとつの考え方であるだけでなく、ひとつの生き方でもある。それは基本的には、次の二行で、わたくしが言いあらわそうとした態度である。
わたくしが間違っているのであって、あなたが正しいのかもしれない。だから努力すれば、われわれは真理にもっと近づくことができるかもしれない。...わたくしは、ここに要約されている見解を『批判的合理主義』と呼んだ」


ポパーの「反証可能性理論」はこの本では、以下のように展開される。
「科学の方法に関するわたくしの見解の全体を要約すると、科学の方法は以下のような3つの段階からなると言えるでしょう。
1.われわれは何らかの問題につまずきます。
2.われわれは、たとえばなんらかの理論を提起することによって、それを解決しようと試みます。
3.わえわれは自分の誤り、とくに、われわれの暫定的な解決についての批判的議論によって痛感させられる誤りから学びます―しかもこの批判的議論は新たな問題を導くことが多いのです。
換言すれば、問題―理論―批判という3つの言葉に要約できます。
この3つの言葉で、合理的な科学の手続き全体が要約されるだろうとわたしは考えます」

「『問題を理解するとは、どのようなことか』という問いが発せられるならば、わたくしは、真面目な問題―それが純粋に理論的な問題であれ、実験上の実際的な問題であれ―を理解するようになる唯一の方法があると答えます。そして、その方法とは、問題を解決しようと試み、失敗することです。ある種の手軽で明瞭と思われる解決では、問題は解決されないと気がついてはじめて、われわれは問題を理解するようになるのです。問題というのは困難だからです。問題を理解するというのは、問題を困難さを経験することです。そしてこのことは、この問題に対する容易で明瞭な解決は存在しないということを発見することによってのみなされるのです」


今回、強く印象に残ったのは、ニュートラルな観察などない、というポパーの見解だ。その場合、観察とはこういう営みになる。
「自然科学というものは、普通信じられているような「観察からの注意深い一般化」ではなく、実際には、本質的に思弁的で大胆な営みなのである。さらにわたくしは、38年以上にもわたって、すべての観察には理論がしみこんでいるのであり、観察の主要な機能はわれわれの理論を証明するというよりは、むしろ理論をチェツクしたり、批判することであると教えてきた」
この部分は、この本の一部で十分に展開されているが、いまひとつ腑に落ちないところがあるので、しばらく考え続けたい。


以下の部分は、現在の思想家が言えないことであり、フリーマン・ダイソンも世を去った今となっては、彼らの本の中にその声を聴き取る努力が必要だと思う。
「この革命―すなわち暴力のもつ除去機能を合理的批判の持つ除去機能によって代替するという革命―のために尽力することが、あらゆる知識人にとって明白な義務である。しかしながら、この目的のために働くには、平明な言葉を用いて、書いたり、試したりするようにたえず努めなければならない。あらゆる思想は、可能な限り明晰で簡潔に述べられるべきである。これは懸命な努力によってしか達成できない」

「未来は開かれている。未来は前もって決定されているわけではないし、偶然による場合を除けば予言されるわけでもない。未来に横たわる可能性は無限である。『楽観主義者のあまでいることがわれわれの義務である』と言うとき、わたくしは、未来は開かれているのみならず、われわれの全ては自分達のすること全てによって未来に貢献するのだといいたいのである。わえわれの全ては、未来に生じることに対して責任がある。
したがって、悪を予言することではなく、よりよい世界のために戦うことがわれわれの義務である」