エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

時間と確率と抽象的量子論

新しい年の始まり。下鴨神社に行ってしっかり祈ってくる。京都はうす曇で、ぱらぱら降ったかと思うと、陽もさしてみたりのお天気。年賀状を読んでも、2009年は激動の年と見て振り回されないように足元を固めようという気持ちの人が多いようだ。

フォン・ワイツゼッカーの「物理学の構築」を読む。

物理学の構築

物理学の構築

ワイツゼッカーハイゼンベルクに師事していたことがあり、「ドイツ語圏で最後の博学者」と言われた人らしい。

ワイツゼッカーはこう書く。
「「量子論を理解する」とは、量子論を適用しているときに何をしているかを言うことができる、という意味である。このような意味での量子論の理解に努めることによって私は、一方で遡行的に、確率論と時間命題の物理学との基礎に導かれ、他方で前進的に、量子論をさらに練り上げて、そこからまた相対性理論素粒子論のための基本的思想とが導き出されるようにするという、私見では有望な試みに導かれた」

このように彼のもともとの関心は、量子力学の解釈問題(あるいは量子論の意味論)にあった。これはもちろん多くの人が取り上げ、かつ21世紀に持ち越された物理学の中心問題である。物理学の正規教程では、解析力学のハミルトン形式をそのまま読み換えて量子化し、あとはひたすら計算のテクニックを鍛え、その過程で「量子論の意味論」などどこかにいってしまう。粒子と波動の二重性といってみたり、「誰も量子が何であるかを知らない」と言ってみたりするのを聞いているうちに、そういうものかと思うものだが、ワイツゼッカーは違う。

ワイツゼッカーは、この本で、時間と確率についての独自の思想をもとに再構成した量子論によって物理学を統一しようという大胆な試みを述べている。

いくつかのポイントがある。

ワイツゼッカーは、過去・現在・未来という様態を持つものとしての時間を物理学の基礎に置き、確率言明を未来に対する言明と解釈する。これにより、熱力学的不可逆性(熱力学の第2法則)を一般的に力学と両立させる事ができるようになる。

ワイツゼッカーは、確率論と時間命題の物理学から、まず直接に抽象的量子論を公理論的に再構成する。
「われわれにとって、古典物理学は具体的量子論の極限的ケースであり、具体的量子論はおそらく抽象的量子論の帰結であり、抽象的量子論は確率的予測の一般理論である、と思われる」
「抽象的量子論の4つのテーゼ
A.ヒルベルト空間 どの対象の状態も、ヒルベルト空間では射線によって記述される
B.確率の計量 2つの規格化されたヒルベルト空間のベクトルx, yの内積の絶対値の2乗は、xに属する状態が与えられたとき、yに属する状態が見出される条件付の確率p(x, y)に等しい
C.結合法則 2つの共存する対象AとBは、複合の対象C=ABとして理解される。Cのヒルベルト空間は、AとBのヒルベルト空間のテンソル積である
D.動力学 時間は実座標tによって記述される。対象の状態はtの関数であって、ヒルベルト空間のそれ自身へのユニタリー変換U(t)によって記述される

こうして3つの要請から抽象的量子論の4つのテーゼが再構成された。動力学からヒルベルト空間が、確率の計量から動力学が、拡張の要請となる状態の定義からこの計量が導かれる。状態空間の結合則は選立のデカルト積から定められる」

抽象的量子論のキーワードは、「経験的に決定可能な選立」である。(彼のいう選立というのは、まあ"場合わけ"なり選択肢程度に理解しておけばとりあえず読み進められる)
そして、この抽象的量子論とは、経験的に決定可能な選立の確率論的予想の一般論として特徴づけられる。

「選立に関する3つの要請の第1.分離可能性。2つの選立は、その一方の決定の結果が、他方の決定の結果に依存しないときに、分離可能であるとされる。分離可能な選立が存在する。
 この要請が量子論の再構成において決定的な役割を果たしている事がわかるであろう。実は、これと一致する要請が量子論の全ての公理を作り上げているのである。われわれは次のように結論せざるを得ない。おそらく量子論なるものは、この要請の近似においてのみ正しいのであると」

そして、特殊相対性理論量子論の1つの帰結とされる。
「第9章はウア選立の仮説という、ほとんど自明な過程を付け加え、そこから特殊相対性理論を導き出す。このように理解するならば、特殊相対性理論量子論の1つの帰結である。したがってわれわれが物理学の対象を記述するのに用いる3次元の位置空間の存在もまた、量子論の帰結である」
さすがに、一般相対性理論非線形性および局所性は量子論との統一の妨げとなっており、ワイツゼッカーもここは未解決問題としておいている。

そして、もともとの量子力学の解釈問題についてのワイツゼッカーの言明はというと、以下のようなものである。
「れわれは、波動の収縮に同意しない物理学者たちに与するものである。−「不可逆」過程は、次のような意味、すなわち、多数の事例の微視的状態が、以前の巨視的状態のものより、より多くの微視的状態を持ち、それゆえ大きいエントロピーを持つという意味において客観的事実なのである。巨視的状態だけを知っている観測者にとっては、これは彼に利用できる情報量の減少であって、それゆえ知識の喪失である。客観的な経過は微視的状態を知っている観測者には変わりがなくおなじである。ところが、これを量子論的記述に翻訳して言えば、われわれのコペンハーゲン学派の立場においては、測定過程の正しい記述は、決してψ関数が収縮しないとわれわれが仮定することによって損なわれることはありえないのである。それゆえ収縮しないψ関数の言語で測定を記述することが可能でなければならないであろう。そのために設定される思考課題は、私の知る限りでは、これまでの解釈論争では解決されていない」
この課題については、最近20年ほどの進展を見ている感じでは、あるいは実験的に形が付きそうな気もするが、どんなものだろう。

以上が、再構成した量子論のよる物理学の統一のあらすじである。そこから出てくるいくつかの言明がなかなか刺激的だ。

古典物理学は具体的量子論の極限的ケースである。
 極限値は、それを極限値とする数列よりも情報量がはるかに乏しい。われわれはこのことを「量子論の知識増加」として強調した。これはハイゼンベルクの不確定性関係の核心である。つまり、測り知れないほど豊かさが増したシュレーディンガー波の情報が存在しうるためには、古典的軌道は存在してはならないのである」

「経験とは何かを知っている者は、十分な意味での時間とは何であるかをもすでに不明確な形で知っている。物理学を研究する者は経験とは何かを知っている。定義とは物理学の内容的概念(例えばエントロピー)への還元であると理解するならば、物理学の成果を用いて時間とは何かを後から定義することはできない。それは循環であろう」

そして、ワイツゼッカーは以下のように言い放って、再構成された物理学は、空間より広い範囲に適用可能とする。
フィンケルシュタインは、これまでの量子論を対象の量子論と空間の古典論とのハイブリッドとして特徴付けた。 フィンケルシュタインは、対応原理的に空間の量子論を古典幾何学から導き出す事によって救済しようとした。われわれのウア仮説はさらに徹底的な試みである。ウア仮説は決定可能な選立の概念以外には、どんな対応原理的な表象をも用いないで出発し、空間も対象も「ウア」のある体系の対称群の表現から展開する。そうなると対象を一般に空間の中で記述する必要性は、決して自明ではなくなる」

その先には、意識がある。
「われわれが主張しているのは、量子論の解釈になんらの変更なしに、それが一般的にいって心的現象に適用される事を妨げるようなものは、量子論自体に存在しないという事だけである」
量子論は体に応用可能であるから、意識にも応用可能でなければならないと、決して主張するものではない。逆に、われわれは、意識の自己認識のなかに決定可能な選立が存する限り、この選立は全ての形式的に可能な選立の理論としての抽象的量子論に従わねばならないと言ってきたのである」
「ところでわれわれは、具体的な量子論へ移行する場合には、ウア選立から意識の自己認識の選立を構成するであろう。そこから人間の意識も3次元空間の物体として記述できると結論しなければならない。この結論は手短に言えば、これが人間の身体でなければならないということである」
「ところが量子論は物体そのものがもはや空間的に記述できない構造に基づいていることを教える。するとこのことは心的現象についても成り立たなければならない。したがって知覚は、素朴さあるいは科学的な支配意志から、物体の世界およびそこに顕現している心的過程のみに限られるので、本質的な心的現象と精神的現象を捉え損ねているに違いないと推測する事ができる」
このあたりは読んでいてもだんだん?という感じになってくるが、統語論的には正しいのかも。

もうひとつすごかったのは、物理学の彼岸に、「通時的知覚可能性」(過去も未来も通時的に知覚できる枠組みがあるのではないかということ)を想定していることである。

「今われわれは純粋に物理学の内部で次の問いかけをしてみたい。すなわち時間様態の三重性の克服を期待することは、われわれの今日の知識と考え方において一致できるのであろうかと」
「預言者のこの現象学は時間の様相論理の2つの科学的に通用する様態、つまり、事実性と可能性とに、今日までのわれわれの科学では通用していないような第3の様態を付け加えることを示唆するものであり、この第3の様態は、おそらく通時的知覚可能性と呼ばれるであろう」
「しかしわれわれはもう1つ別の限界の踏み越えをまだ果たしていない。その踏み越えとは対象、空間、幅をもった時間という概念の相対化である。この相対化は量子論で始まり、いまだに解釈が済んでいないものである。われわれは経験的に決定可能な選立への時間、空間、物質の還元が、古典物理学がわれわれに示した自然の前面の相であることを知ったはずである。もしわれわれが量子論を正しく解釈しているならば、量子論は、この前面の相が可能なのはひとえにそれがはるかに大きな別種の豊かな構造という基盤に基づいているからである、ということを教える。われわれはこのような構造の一部を目にした場合に、量子論的な「知識増加」について語ったのである」

私は何となく、極値原理(変分法)を「通時的知覚可能性」と同じものだと思っていたけれども、このあたりを読むとどうも別物らしい。面白いもんだな。