エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

ソウルダスト

水がないとは不便なもので、昨日は危うく風呂に入り損ねるところだった。


ニコラス・ハンフリーの「ソウルダスト」を読む。

ソウルダスト――〈意識〉という魅惑の幻想

ソウルダスト――〈意識〉という魅惑の幻想

「赤を見る」という印象的な本を買いた理論心理学者の新作。帯でラマチャンドランが褒めていたので購入。
意識の哲学ということでは、個人的にはダニエル・デネットがお気に入りだが、ハンフリーはひどく文学的で
読み物として楽しめる。楽しめるが、読後、時間がたってくると「意識の哲学」と「意識の科学」」の違いが
浮かび上がってくる。

この本は2部にわかれ、前半では「意識とは何か」というQusetionに対するハンフリーの答え。後半では
意識を持つことが進化上でどれだけの利得があったかという議論に基づいて、えらく積極的な人間哲学が
展開される。

まず前半。

「意識の真相は、もし適切な視点から眺めた時には、実はとてもありえそうにない生物学的エンジニアリングの成果であることがわかると私は主張したい。それは、自然の見事な芸術作品で、私たちの心のなかにありとあらゆる種類の不思議な心象を生み出すが、それでいて、わりあいすっきり物理的に説明できる、と。」

「感覚はあなたの心によってモニターされるものとしてのセンティション(私秘化した表現活動)なのだ」

「私の出発点は、センティションに何が起こったにせよ、それはたいしたことのはずがないという事実だ。自然淘汰は既存の構造を部分修正するだけであり、しかもなるべく手軽な手段でそれを行う。センティションはすでに内在化した身体表現になっていたのだから、このセンティションはさしずめ粘土で、そこからイプサンドラム(ハンフリーのいう『意識』の象徴)がかたちどられたに違いない」

「私は、解決の鍵はイプサンドラムが物理的ではなく数学的なものであることだと考えている。イプサンドラムは、神経回路内での活動の複雑で動的なパターンで、その特別な属性は時間の経過とともに起こることを統合する計算というレベルでのみ現実のものとなり、『目に見える』ようになる。手短に言えば、イプサンドラムは、雷を伴う発達中の嵐や、旋回するムクドリの群れ、音楽のソナタに少し似ている。
脳レベルでこの活動パターンを支えているのは、再入力フィードバック・ループ、つまり外部刺激によって引き起こされる活動が、少なくともわずかな間は、自動継続するようなループの存在ではないだろうか?」

「これを答えとさせて欲しい。意識を舞台に上げるために自然淘汰が果たした役割といえば、既存のフィードバック・ループの属性を調整し、その活動を特別な部類のアトラクター状態、つまり主体の視点から見ればまさに、感覚に現象の特性を与えるであろう状態へと導くことにほかならなかったのだ」

「私たちは今、じつはNCCとは主体がある特権的な位置から自分のイプサンドラム(特別な種類のフィードバック・ループにおける活動を統合したもの)を観察した時に起こる脳内の一連の出来事であると主張している」

「意識の哲学」としてうまく整理していると思う。しかしやはりこれを見ると、「意識の哲学」というものは、よほど上手くやらない限り「意識の科学」の脚注にとどまり、一方通行だと思う。科学哲学は方法論の吟味にもっともその威力を発揮し、対象が具体的になるほど、切れ味が鈍る、という気がする。


つづいて後半。ハンフリーはこの部分で、西洋の古今の文学・哲学をさかんに引用して、「生を感じることの喜び」を「謳いあげ」、もって「発達史で意識が生まれた」ことは当たり前だ、という論法を展開する。

「発達史からわかるのは、意識が3つのレベルで一生をいっそう生き甲斐のあるものにすることだと思う。意識ある生き物は現象的意識を持つことを楽しむ。彼らは自分が現象的意識を持って生きている世界を楽しむ。そして彼らは現象的意識を持っている自己を楽しむ。ただし、「楽しむ」という言葉は弱すぎる。少なくとも人間の場合は次のように言う方がふさわしいだろう。人間は現象的意識を持つことを満喫する。自分が現象的意識を持っている世界を愛する、現象的意識を持っている自己を尊ぶ、と。
そのうえ、このあとの3章で示すように、意識ある生き物にとって、これにはすべて正真正銘の生物学的価値がある。付加された生きる喜びと、自分が生きている世界の新たな魅力と、自分自身の形而上の重要性という新奇な感覚のおかげで、個体が自分の生存のために行う投資が、進化の歴史のなかで劇的に増えた」

反論その一。東洋思想、とくに仏教では自己をこのようなものとして考えない。また西洋思想においても、ほぼ同数の反例を多く挙げることができると思われる。悪く言えば、この部分は高級な自己啓発本(の論理)ともみえる。進化に順番は関係ないので、もし適応度をその種が存在した時間で評価するならば、ホモサピエンスよりも、たいていの恐竜の方が適応度が高い。でもたぶん、恐竜はハンフリーがいうところの「意識」を持っていない。したがって、意識と適応度の関係は単純ではない。その部分を無視して、意識の有用性(に裏打ちされた人間ぞんざいの素晴らしさ)を謳いあげるとしたら、それは眉唾な「人間原理」の哲学版になってしまうのではないだろうか。単純に考えて、もしあるウイルスの感染で人類が絶滅したとしたら(それも場合によっては人間が改変したウイルスで)、ハンフリーのこの議論は全く意味をなさない。したがって、進化によって意識を説明することは、人間の自尊心を増す効果はあるが、科学としてはあやしいと私には思われる。

反論その二。第一部での議論を見る限り、ハンフリーは外適応の概念を意識しているし、意識が外適応によって生じたと議論しているようだ。その議論は第二部に反映されていないと感じる。進化理論の適用において、第二部の論理は甘いと思う。

面白い本だが、切れ味という点ではダニエル・デネットの方が印象的だと思う。