エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

暴力をいかに制御するか

昨日の朝、車を出そうとしたときに、今年初めての鶯の声を聞いた。玄関の前の沈丁花の花がほころんでいる。


佐藤優の「国家論」を読む。

国家論 日本社会をどう強化するか (NHKブックス)

国家論 日本社会をどう強化するか (NHKブックス)

私は「自分が国家のために何ができるか」というケネディの言葉をある程度の実感をもって受け取ることができたぎりぎりの世代なので、ごく当たり前の(今となっては陳腐な)国家観を持っている。したがって、橋下大阪市長の言動には期待よりもうさんくささを感じてしまうし、彼の顔の振り方は小泉元首相とよく似ているという程度のことしか考えない。たぶんそれはまずいということは自分でもわかっていて、それが好んで佐藤優の本を読む理由だろう。佐藤は国家主義者だが、国家は暴力装置であり、必要悪だという発想で話を展開するので、はっとすることが多い。


「人間はその本性において、暴力的な存在です。自分の意志に反することをやらされることもあれば、人の意志に反することを、力によって強要することもある。そのような暴力を、いかに剥き出しにならないようにするか。暴力をいかに制御するかということが、国家倫理においても社会倫理においても重要である。「まえがき」でも述べたように、思想というのは、暴力に作用することができる、人間の特殊な能力です。最大の暴力を発揮する、自己犠牲の思想だと言えるでしょう。人間は個体として生き残ることを望んでいるはずなのに、その個体をより高度な理念のために、より高度な目標のために、あるいは、他者のために捨て去ることができる。自分の命を捨ててもいいという気構えができた瞬間に、他者の命を奪うことに対する抵抗感というのは、ほぼなくなるのです」

今の日本において国家をこのように感じることができるのは特殊な感覚といえるのだろうが、歴史を通観すれば、まさにそうであろうと納得できる。それにしても、生物学(特に進化論の視点から見て)思想とは何なのだろう。