エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

神経発生学の哲学

Society for Neuroscienceは3万人以上の参加者を集めて5日間開かれる。今は4日目の朝。時差ぼけもとれていろいろ楽になったところだ。

まずはとにかくlectureのレベルが高いので、聞いているだけで脳が揺さぶられてくる。おまけに長丁場なので、お昼過ぎなどに開放的な廊下でぼーっとしていると、意識無意識でとりこまれた大量の情報のせいで、いつもと違った方向から、あるいはいつもより一段もぐったところから物を考える時間がもてる。


2つのきっかけから、「神経科学にとって、神経発生の研究はどういう意味を持つのか?」ということを考えている。
「できあがったものの構造と機能が完全にわかってしまえば、それがどういう順番でどういう具合にできたかという知識はなくてもいい」という言明はありうる、とふと思ってしまった。
実際は、たとえば、「脳を創る」という方向性から脳の理解を目指すという行き方が考えられるのと同じように、「脳がどうできあがってくるか」という知識は、脳の理解にとって不可欠だというのが、神経発生学の公理になっている。(この場合は、臨床応用面での実用性があるので、基礎応用どちらから考えても神経発生研究は必要と主張しうる。通常の場合)

しかしながら、その哲学的根拠はあいまいといえばあいまいである。それについては歴史物理学(いま読んでいる「歴史はべき乗則で動く」の中に出てくる考え方なので本当は説明が必要なのだが、それは数日後のブログで補う)のような立場をとって説明したほうがより説得力のある議論ができるかもしれない。

しばらくこの問題を頭の中で転がしてみたいと思っている。


学会期間中は、デズモンド+ムーアの「ダーウィン」と村上春樹の「遠い太鼓」を気分にあわせて交互に読んでいる。ダーウィンはまだビーグル号の航海の途中だが、感情移入してよめる伝記なので、かなり面白い。