エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

人間はガジェツトではない

先週は仙台と和光に出張。仙台は雪が舞っていた。


ジャロン・ラニアーの「人間はガジェツトではない」を読む。

人間はガジェットではない (ハヤカワ新書juice)

人間はガジェットではない (ハヤカワ新書juice)

いろいろな意味で大変興味深い。特に、意識と時間の関係について、自分で漠然と考えていたことを彼の表現で聞くと、また違う角度から考えることができて勉強になった。

「意識のようなものに神秘はないと考えると、そこに存在する神秘がどこかほかに都合の悪い形で登場してしまい、研究者としての客観主義が崩れてしまう。−たとえば、意識は幻想だと定義することは可能だが、そうすると、定義として、意識は整理して簡単な形にできないことになる。
意識は時間という流れの中に位置する。時間の欠落を体験することもできないし、未来を体験することもできないからだ。意識が脳というコンピューターの中に存在する見せかけだけの思考なのだとしたら、時間軸に位置するものは何だろうか。時間軸に位置できるものは、このほか、現在という瞬間しかないわけで、その場合、現在はそれ自体が独立で存在するもの、どのように体験されるのかと無関係に存在するものになる。
脳の中でうごめく思考は相対的であるほか潜伏期もあるため、現在の瞬間というのは、科学的にかなりラフな概念である。全体をカバーするひとつの物理的現在も定義することができないし、認知的現在を正確に定義することもできない。それでもなお、どこかに何らかの形でいかりのようなものは存在するはずだ。非常にあいまいかもしれないが、そうでなければ、現在について語ることさえできない。

時間体験とは幻想だと考えると、あとは時間そのものしか残らない。そのとき、現在という幻想が発生するためには、メタ時間なり何なり、ともかく何かを置く必要がある。そして、時間そのものが現実を流れてゆくといわざるをえなくなる。これでは堂々巡りになる、。
意識を幻想だとすると、超自然的存在―不気味な非決定性のようなもの―を時間に与えてしまう。それが困るなら、別のシェルを選び、時間は自然である(超常ではない)として、現在という瞬間は意識があるからこそ可能な概念なのだと考えるしかない。
神秘的なものをあちこち動かしてみるのもいいが、ある程度の神秘がそうしても残ってしまうならそういうものだと認めてしまうのがベストだ。整然とした研究や開発が可能なものについて、できる限り明快に語りたいと思えばそうするしかない。
それでも、本当は知らないことを知っているとエンジニアが思い込んでいるより罪は軽いだろう。エンジニアの場合、コンピューターの使用を通じてその幻想を強化できるだけに始末が悪いのだ。特異点を持つサイバネティクス全体主義者は、あやしげな補助食品をすすめる連中よりいかれている」

「この件について私が驚くのは、コンピューターサイエンスのコミュニティに知的な慎みが欠けている点だ。科学が直面している深遠な問題についての単なる仮説―しかもあいまいなもの―を嬉々として工学設計に組み込んでしまっている。その点について万全の知識を有しているかのように。
あるいは、我々がどうこうできない原理によって違いが生じている可能性もある。特殊で複製不能な物理的状態をベースとした因果律を用い、物理的な脳だからこそ可能な計算方法となっているのかもしれない。あるいは、悠久の進化によってのみ構築可能なソフトウェアが必要かもしれない。
そのソフトウェアをリバースエンジニアリングしたりいじったりすることは不可能なのかもしれない。あるいはまた、一部の人がおそれているように二元論が正しいということであり、意識と機構とは別物なのかもしれない」


「中でも最初の考え方、ソフトウェアでは量が質に転化するという話は腹が立つ。ソフトウェアが大きくなると―少なくとも今分かっているつくり方では―ひどいことになり、なんとか対処しようと日々、格闘しているのがコンピューター研究者というものだからだ。
二番目の流儀も役にたたない。自己表現とストレンジループ構造を持つソフトウェアを作るというのは、とても興味深く、知的興味を刺激される。私も、先ほど紹介したスカイダイビングのシナリオを仮想世界につくってみたことがあるほどだ。しかし、このようなトリックを大量に組み込んでも、私はソフトウェアの能力に違いを見出せていない。それでも、いつの日か、そのようなことが起きるという期待を持って研究を進める人工知能研究者が今も大勢いる。
三番めの流儀―現代版チューリングテスト―については、私がなぜ反対するのか、いまさら繰り返すまでもないだろう。人が架空の存在を信じることは可能だが、われわれが暮らしに用いるソフトウェアツールにその架空の存在が住み着いていると考えるためには、われわれ自身を不幸な方向に変化させる必要がある。自分自身を愚鈍な存在に貶める必要があるのだ。
しかし、計算という視点から人を特殊だと考えるにあたり、この三種類以外のやり方がありうる」


「私が太陽のメタファーに興味を引かれるのは、情報科学という学問が始まった頃からその中心に存在した疑問に関係があるからだ。意味とは簡潔・明確に記述できるものなのか、それとも、膨大な数の要素の間に存在する統計的な関係からなんとなく導き出されるものなのか、である」

意味については最近よく考えている。神経機能の発達過程で、統語論が出てくるところはほかのプロセスとの類比が可能な気がするのだが、意味論についてはさっぱりわからない。分節がキーポイントか?