エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

不確実性の不快に耐える

昨日の研究科講演会の帰りに大学の建物の脇を自転車で過ぎると、虫の音が聞こえる。暑い暑いと思ってもいつのまにか秋が来るのはいつもと同じ。


ロバート・バートンの「確信する脳」を読む。

確信する脳---「知っている」とはどういうことか

確信する脳---「知っている」とはどういうことか


最近いろいろシステム神経科学や哲学の本を読むにつれて、経験論や懐疑主義、中庸ということを以前より高く評価するようになっているが、神経科学者の書いたこの本は、慎重で手堅い論法で「不確実性の不快に耐えながら思考すること」の意義を説いて、高く評価できる。


バートンのこの本での主張は以下に典型的に示されている。

最近の神経生物学の知見にのっとってのバートンの仮説:
「確信とは、それがどう感じられようとも、意識的な選択ではなく、思考プロセスですらない。確信や、それに類似した「自分が知っている内容を知っている(knowing what we know)」という心の状態は、愛や怒りと同じように、理性とは別に働く、不随意的な脳のメカニズムから生じる」

最終的にバートンが推奨するのは以下の内容:
「生物学的に言って、確信できる知というものはありえない。私たちは、不確実性の不快に耐えることを学び、子供たちに教えていかなければならない。科学は、可能性の世界の言葉と道具を用意してくれている。各種の意見を分析し、正しい可能性を排除する手段はある。それで十分なのだ。確実性を信じ込むことから生じる破局などいらないし、そんな道をえらぶわけにはいかない」


この本におけるキーワードは<既知感(feeling of knowing)>である。<既知感>を一次的な脳のモジュールと見るこの主張は一見無理があるように考えられるが、この点でのバートンの論証は手堅い。

「脳の中の位置が比較的はっきりしていて、意識的、認知的な入力なしに容易に再現されるという普遍性の基準を用いるなら、<既知感>やそれに類する感じは、恐怖や怒りと同じく一次的な状態と考えるべきである。恐怖や不安と意識的思考との関連は最近明確にされてきており、そこから情動知能(EQ)という概念が生まれた。<既知感>が私達の思考を形成する際に果たす役割についても。そろそろ同様の検証がなされてしかるべきだろう」
「<既知感>は、普遍的で、のうの特定の領域から発している可能性が高く、直接刺激や化学物質により引き起こすことができ、しかし意識的な努力では引き出すことができない。これらの特徴は、<既知感>を一次的な脳のモジュールであるとする論拠となる」

面白いのは、進化における<既知感>の意味づけである。

「<既知感>は、思考にとって最初の「イエスマン」だった可能性が高い。「君は利口なやつだな」と、その<感じ>が叫び、ハイタッチする。「頭を使ったってわけだ」と、ますます自尊心をあおるようなことを言ってくれる。そして人類は進化した」
問題は、その考えが検証されるまで私達を頑張り続けさせるだけの強力な報酬が必要だということだ。そして、その報酬が説得力を持つには、考えが正しく、照明できると分かった時に得られる感じに近いものとして報酬が感じられなければならない」

いわば、学習の報酬としての既知感である。

ここから出てくる懸念がある。

「白黒をかっきりさせ、イエスかノーかの二者択一的な答えをよしとする教育のあり方は、子供達の報酬系の発達のしかたに影響するのではないだろうか。教育現場で、根本的に、曖昧さや矛盾や底に潜む逆説を深く意識することよりも、「正しい答えを出す」ことが求められるとしたら、脳の報酬系が、柔軟さよりも確信を好むように形成されるかもしれないことは、容易に推測できる。疑うことをしっかりと教えられなければ、それだけ難問を問うことに危機を感じる。逆に言えば、バーを押すとごほうびがもらえるラットと同じように、立証済みの反応に固執することになる」


以下、思考を支える感覚についての反省から、確信の日本の柱である合理性と客観性が絶対のものではないという論旨に至る。

「意識的思考も無意識的思考も、基本的なメカニズムは共通している可能性は高いように思われる。それはすなわち、情報を処理するニューラル・ネットワークだ。意識的思考と無意識的思考とが根本的に異なると仮定するなら、認知の基本となる生物学的現象が、思考が意識に入ったり出たりするたびに変化するということになる」
「「心」を描き出そうとする認知科学者にとって、おそらく最も困難な課題は、気持ちの上で満足でき、しかし同時にこの作業に内在する限界にも目を配るようなやり方をとらなければならないということだろう。取り組むべき一番の難題は、脳の中には、何らかの不随意的で検出不可能な影響を被らずに思考することのできる独立回路など存在しないという点だ。それが存在しない以上、確信というのは、生物学的に正当化できる心的状態とはいえない。もし、この制約の存在が容易に受け入れてもらえるものならば、本書はもう終わりにしてもいいくらいだ。しかし、自己を吟味する心という観念を捨て去る、あるいはそれに制限をかけるだけでも。現代思想のあらゆる側面に戦いを挑むことになる」
「現代の神経生物学を読み解こうとするとき、そこに立ちはだかる大きな難問が一つある。一方には自己吟味が必要だということがあり、その一方では、そのような自己評価のうちのある程度の部分が、ときには重大な結果を招くほどの欠陥を抱えていることもわかっており、この両面をどう扱うかという難問だ。「吟味されざる生は生きるに値しない」というソクラテスの格言に根本的に疑義を呈する人はいない。自己評価と自己向上への努力は、「善き生」を送るために不可欠の要素と考えられる。たしかに、私たちは徹底的な自省と厳しい吟味を行わなければならない。しかし同時に、そのような内観も、現に働いている私たちの心についてはせいぜい部分的に見て取れるだけにすぎないということも認めておく必要がある。完全な客観性は、決して得られるものではない」


この部分を言い直すと、「心の限界が、心の限界を認めることを妨げる」ということになるだろう。


この見地からの批判的な例のひとつは、宗教は幻想であることを力説するドーキンス

ドーキンスは、合理主義者のジレンマを分かりやすく示している。世界が無意味だと知性で結論付けている人間が、個人的な<目的感>をどのように示すことができるのか。無意味さを指摘する目的とは何か。無目的性を理解することに目的を見出す意味とは何か。私たちは再び、ドーキンスの知性(世界は無意味だ)と彼の心の<目的感>(信仰が非合理的であることを人に示したい)との間の葛藤に立ち返る。ドーキンスが感じた<目的感>の激しさを理解するために、彼の経歴と発言をウェブで検索してみるといい。信仰を持つ者に、その信念の愚かさを納得させようとするドーキンスの情熱的な努力は、異教徒を改心させることを義務と心得る宣教師の熱意と同質のものだ」

個人的にはかなりドーキンスはひいきなので、ここで言っていることはわかるが、少し話は違うような気もする。それ自体が注意事項なのかもしれないが。


それに対して、本書で非常に高く評価されるのがダーウィンの態度である。

ダーウィンは、宇宙を単なる偶然の産物と概念化することはできないと認めるところから出発し、最後には、因果性と見えるものが心の錯覚にすぎないかどうかは知りえないということを認めるところまでいった。理性と感情の両方に基づいて知の限界を認めたダーウィンは、人間の心が存在の謎を解くことはできないという考えを、ひるむことなく受け入れたのだ」


最近、野矢茂樹の本でヴィトゲンシュタインを読み直しているが、逆の方向から同様のことを言おうとしているのが、野矢の解釈のようにも思える。