エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

英雄ではないダーウィンについて

さすがに朝方は涼しくなってきて、6時前に新聞を取りに玄関のドアを開けて出て行くと、肩をひんやりと風が抜ける。


デズモンドとムーアの「ダーウィンが信じた道」を読む。

ダーウィンが信じた道―進化論に隠されたメッセージ

ダーウィンが信じた道―進化論に隠されたメッセージ

長いこと生物学をやっていると、何度か「起源=これはなぜこうなったのか」を掘り下げたくなる状況が生じる。あるいは、「生命とは何か」「生命の論理とは何か」といった疑問にいきなり捉えられる瞬間がある。そういったとき、「不動の基盤」として意識されるのがダーウィンの進化論である。

では、ダーウィンはなぜ進化論にたどり着いたのか、を書いたのがこの本であり、意外なところに連れて行ってくれる。

ダーウィンが思い描いた「共通の祖先」という進化のイメージは、こうしたものすべての土台だった。科学と人類多起源論の仮面をかぶった奴隷制擁護主義者への呪いだった−なぜなら彼らは、アダムとイブという究極の単一起源論である聖書の教えを知りながら、それに背いたのだから。聖書はある意味正しかった。「人類はみな兄弟」というキリストの教えは、つまるところ、ダーウィンが唱えた共通の起源の本質だったのだ。彼が人類の単一性を証明するために取り組んだ科学は、いまでこそ宗教と切り離されて考えられているが、ダーウィンに近い人々には人類多起源論者の奴隷制擁護のメッセージに対抗するものであることがわかっていた。そんな人物の一人の言葉を借りるなら、「人種に関するわれわれの先入観や誤った理論−太古からの虐待と長きに渡って確立された抑圧の制度を前提とした考え−の多くは、ダーウィン民族学によって葬り去られた」のだ。「つまりは、」とダーウィンは人種についての考察を、こうまとめた。「進化の原理が一般に受け入れられたとき....人類単一起源論者と人類多起源論者の議論は静かに消えていくだろう」
ダーウィンリンカーンは同じ年月日の生まれだそうだ。そして、ダーウィンには家伝の、そしてビーグル号の旅で強迫観念にまでなった奴隷制への憎しみがあった。それこそが、人類は、そして生物はもともとひとつの源から発したという進化論建設の動機となる。もっとも種が変化しうるというのは、ダーウィンの時代には異端の説でこそあれ、既にいろいろな人が言っていた。ダーウィンがしたことは、それを膨大なデータにより、可能な限りの科学にしたことだ。だが、下記のようにダーウィンは英雄ではなかった。

「またダーウィンは病人でもあった。何年もの間頻繁に、ときにはひどく体調を崩した。「人間」に、そして出版に近づけば近づくほど、病状がひどくなった。『種の起源』を書いているあいだ、水療法をうけるために5度も療養所にひきこもらなければならなかった。神経がずたずたになっていた。「鞭を振り上げられているニグロでもこれほど一所懸命働かないだろう」と、文章と格闘している時に語っていた。しかし「私の肉体にあらわれる病気のほとんど」の本当の原因は、彼も認めているように、不確実な自然淘汰による生命の進化という人を刺激する『種の起源』と、そこで示唆されている獣である祖先をめぐる騒動だった。彼は「無神論者として忌み嫌われる」のを恐れていた。評判と名誉がすべての尊敬される紳士として、耐え難い事だ。のちに温泉療養所から、印刷された『種の起源』を送るのは、「行きながら地獄に落ちたような心地だった」」

そして意外だったのは、ダーウィン自身の考えの中に、社会ダーウィニズムが既に胚胎していることだ。だが、これもダーウィン自然淘汰のアイデアマルサス人口論に発していることを思えば当然のことなのかもしれない。
「知力の進化は依然として続いていると信じていたダーウィンは、現代の社会階級でも自然淘汰が働いていると考えた(この考え方がのちに「社会ダーウィニズム」と呼ばれることになる。彼が考える自然観と社会観は、限られた資源をめぐって過剰な人口が奪い合いをするというマルサス主義に基づいていた。マルサス主義ホィッグ党政権は1830年代に救貧法を改正し、健康体の貧困者に競争をさせ、その数を減らそうとしていた。同様にダーウィンの進化論は動植物を個体数過密の自然界で競争させていた。そしてダーウィンは、もちに優生学創始者と呼ばれることになる父方のいとこのフランシス・ゴールトンと、紡績工場のオーナーとなったエディンバラ時代の旧友ウィリアム・ラスボーン・グレッグの統計学優生学を組み入れてゆくのである」

私は、ダニエル・デネットの本に共感して以来、自分をウルトラダーウィニストと自己規定してきたが、やはり等身大のダーウィンダーウィンのペルソナを見なくてはいけないのだと思った。

「ライエルはこの爆弾の到来をうすうす予感していた。ウォレスの1855年の短い要約が届いたとき、ダーウィンに、発表しなければ出し抜かれると助言したではないか?ダーウィンは、あなたの「言葉がまさに現実になった」と認めている。ウォレスの原稿は、ダーウィンが20年間も心血を注いで磨き上げてきた理論をすっぱ抜いたようだった。ウォレスの理論は「淘汰」についても述べていないかもしれないし、野生種と飼育種の間の類似性も否定しているかもしれないが、人口過剰や闘争、生存における差などのマルサス的観念では似通っているように見えた。ダーウィンは(ウォレスの)その原稿に、恐れていた出し抜かれる可能性を見て取った。『自然淘汰』の「11の長い章」はまだ22万5千語の草稿だ―さらに3章ほど書かなければならない。性淘汰についての10ページは、第6章を書き始めた時にほかの追加事項と一緒に紛れ込ませてあった。20年の恐怖のあと、ダーウィンは崖っぷちに立たされた。ライエルにうめくように言うのが精一杯だった。「私の独創性のすべてが...粉砕されてしまう!」」

英雄ではなく、強者でもなかったダーウィンにより進化論が創られたことは、そうと知ってみればそれ以外ありえないと思えるほどしっくりとくる。