エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

エントロピーは観測の瞬間に飛躍的に増加する

昨晩はこちらに来てはじめて文楽を見に国立劇場に行った。菅原伝授手習鑑。三味線も語りも絶品だった。特に豊澤富助の三味線はよく鳴っていてほれぼれする。


渡辺慧の「時」を読む。


これはここ数年読みたい読みたいと思っていた本だったので、本屋で平積みになっているのを見たときはびっくりした。図書館にもなく、70年代に加筆して再出版されたものも絶版で、古書には軽く手を出す気にならない値段がついていた。

というわけで、かなり期待して読んだのだが、うれしいことに期待はうらぎられなかった。「こういうのもありか」という新鮮な空気にくれた思いがする。


「熱力学の第二法則のいうことは、より確率の多い状態には移れるが、その逆には移れないということなのである」という

まず空間の左右と時間の前後は等質である。左右は人間が勝手に決めたもので(長さをメートルで測るのと同様に)、同じ法則が成り立つが左右がわれわれと違う宇宙があることに物理的な問題はない。時間の前後についても事情は同じである。可逆的な古典物理学量子力学の立場からは、たまたまわれわれの宇宙とは時間が逆に流れる宇宙があっても差し支えない。この場合はエントロピーは過去に向かって増大することになる(こう書くのはたぶん不正確で、同じ宇宙においても現在から未来方向にも過去方向にもエントロピーは増大しなければいけないらしいのだが、その仕組みを私は現在理解できていない)。


少し言い換えると、(観測する)人間がいなければ、世界は時空という静物とみても一向に差し支えない。これが渡辺の基本的な出発点となる。ということでこうなる。

エントロピー増大の秘密は全く観測にあるのです。強いて言えば、さきほど非常に多数の同一対象をとると言いましたように、われわれの推論は統計的であります。それゆえ、エントロピーの増大は観測ということの統計的処理によるといってもいいでしょう」


この表現は、そのあたりの教科書にのっている表現とあまり差がないように聞こえるかもしれない。でもそうではない。渡辺の問いたいことはこういうことだ。

「しからば量子力学的に熱力学的状態を定めるのにはどうすればよいか?系についての量子的知識の数学的表現がψなら、われわれの例えば(p, V)といったような熱力学的知識の数学的表現は何であるべきか?」


そして、この本の実にユニークなところはこのような渡辺の提案である。実際には不確定性原理を使ったきちんとした説明を与えているのだが、ここでは文章のみを引用する。

「物理学の基礎方程式に現れる時間、本来的な意味における物理的時間は、可速、可逆、回帰的という特性を持っている。これに対して、現実の物理現象はエントロピー原理の示すごとく不可逆的、前進的である。この両者の外見的矛盾を解決しているのは、観測の理論である。この理論によれば、一つの観測の瞬間と次の観測の瞬間をつなぐ係数としての時間は、可逆的回帰的な時間であるが、観測の瞬間に観測者および被観測者に生じる変化は、一方向きで不可逆であるという。かかる観測というひとつの瞬間的行為が、物理現象の不可逆性の源泉となっているのである」

「量子物理学においては、状態は、二つの全く異なる過程により変化する。第一のケースでは、状態は波動方程式に従って時間とともに漸次変化する。この変化は因果的であり可逆的である。第二のケースでは、状態は観測者がその体系に対して新しい観測を行う瞬間に飛躍的な変化を受ける。この変化は蓋然的であり不可逆的である。新しい情報は状態の認識なので、状態に変化を生ずるのは当然のこととなる。
 エントロピーはこの第一の過程によっては変化を受けないことが証明される。そのことは、この変化が可逆的であることに密接に関連している。これに反して、第二の過程にではエントロピーは突然変化する、そしてその変化は常に増加に向かう変化である。これは、観測という行為自身がエントロピーを増加させることを意味する。古典物理学者にとっては奇矯な話である。なぜなら客観的な物理学的な量が今や主観に密接に依存することになるからである。こう考えると、エントロピーはもはや単なる物理法則ではなくなるはずであり、認識の発展の法則とみなされなければならない。つまり新たな力学においては、状態と状態の認識とは同一のことを意味するからである。
 それのみならず、エントロピーは時間とともに漸次増大するのではなく、観測の瞬間に飛躍的に増加することに注目すべきである。エントロピーは、観測の前より後の方が必ず大きいのである。ところが、ここにいう前とか後とかいうのは時間の経過について言っているのではない。それは単に認識の発展における順序に関して言われていると考えるのが正しい。ここでは、心的時間の方向が問題となっているのである」

波動関数の収縮」時に起きる情報の変化を不確定性原理にそって考えるとこうなる。この部分を大沢真幸の解説を借りて説明するとこうなる。

量子力学がー渡辺によって解釈された量子力学がー教えてくれることは、この二つのレベル(「存在」と「生成」)の対立のさらなる基底に、量子力学の領域が、つまり波動/粒子の不確定的な二重性のレベルがあるということである。観測によって粒子を確定しようとすると、われわれは代償として波動を得ることになり、この粒子と波動の関係がエントロピーの増大として検出される」


観測のない時空は静物である、という出発点は個人的には自然に受け入れられる。観測時の波動関数の収縮によりエントロピーが増大するという点については、量子力学の特定の解釈に立脚しているので議論の余地があるが(渡辺自身も暫定的な理論だといっている)、大変面白い。もちろんその後にひも理論があり、量子宇宙論量子力学と一般相対論の統一)http://d.hatena.ne.jp/tnakamr/20080907/1220767935の進展があるので、それに沿った読み直しが必要だろうが、基本的な修正点はなしに検討しうるという気がする。もちろん簡単にわかる問題ではないが、少しすっきりした気がする。こう思える本は少ない。名著。