エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

チベットのモーツァルト

先月買ったデルのDVDドライブを壊してしまった(壊れてしまった)ので、電話で引き取り修理を依頼。コールセンターの女性は名前からして韓国か中国の人らしい。流暢な日本語なのだが、ところどころ何を言っているのかわからない。でもそんなことを気にしてはいられないので、お互い歩み寄ってコミュニケート。言い換え言い換えしていると、どこかで「ああそう」ということになる。結局、引き取りなら1週間から10日かかるけど、デルから送ってくる新品のDVDドライブを自分で交換すれば明後日には全部済むといわれて、そちらを選ぶ。今度のデルは「分解拒否」してるのかと思ったが、そういうことでもないらしい。まあ考えてみれば当たり前だけど。

中沢新一の「チベットモーツァルト」を読む。

チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)

チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)

中沢新一出世作吉本隆明の解説が的確な要約である。
「ある古典的な遠い過去の時代に、人間はどんな精神をもち、何を考えていたかなどを推論により知りつくすためにはどうすればいいのか、何を掘り返せばいいのか。
この精神の考古学とでもいうべき専門家たちにはたった一つの方法しか考えられない。それは未開の宗教、医術、経験などを継承し、それに通暁しているか、それらの技術を保存している固有社会の導師に弟子入りしてその技法を体得し、その確信を現代的に解明することだ。たぶん中沢新一の「チベットモーツァルト」は、この「精神の考古学」の技術法を使ってチベットの原始密教の精神過程と技法に参入し、その世界を解明しようとした最初の試みではないかと思った」

世界を記述するために分節・二元論化に向かう言語的把握をチャラにして、「縁起」という相互作用の連続体として世界を見るための修行法が、チベット原始密教の本質であるらしい。そして、いっさいの媒介から解き放れた「意識の自然」状態がたたえる「大楽(大いなる快楽)を実践的に求めようとする。

基本的な考え方は、無分節化とそれを通り越した分節的把握をらせん状に往復する禅と一緒のように思われる。

仏教思想などは、言語の目覚めと共に消え去っていく純粋な差異の思考のいだく夢にかけようとするものだと言えるかも知れません。仏教思想は東アジアを横断していく長い旅をとおして、さまざまなスタイルをとち、異なった表現や形態をとりながら発展してきました。仏陀がいうように、仏性には始まりもなければ終わりもないのですから、これが仏教のオリジナルだというようなものは存在しないのかもしれません。しかしそのなかでも龍樹の名とともにある「中観」の思想には、仏教思想のもっとも特徴的な点が哲学的な言説として体系的に表現されているように思えます。「空の言説」とでも言うべきその思想の特徴をつかまえて、ソヴィエトの記号学者ニュルが「ゼロロジック」という気のきいた言いまわしで呼んだのは、それが、純粋な差異論的思考を目指しつつ、いっさいの意味的・論理的構築物を、つまりは言葉のつくりあげるいっさいの現実を脱構築しようとしたからなのです」

仏教思想と構造主義を重ね見る哲学というのは、今に至るまである種の格好良さがあると見られているが、正直言うとその魅力が私にはぴんとこない。これはこちらの感受性の問題だとは思うが。