エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

そして山羊があらわれる、羊ではなく

3週間ぶりに座禅会に行ったら、途中から雨が激しく降り出した。雨音に集中していると、視界が自然に狭くなって集中しやすくなる。人によってはリズムが気持ちが良くてそのまま眠りに誘われることもあるらしい。座禅が終わってもまだ本降りだったので、雨宿り代わりにそのあとの法話会に出た。いろいろな人がいてなかなか興味深い。住職さんは70くらいの細身の人で、法話というわけでもなく、托鉢の話やら、呼吸法の話やらを聞いているうちに1時間がたって、話が終わったころには雨もだいぶ小降りになっていた。

村上春樹の「1Q84」を読む。

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

ドイコーヒーの「ルワンダ ナイアルイーサ」を飲みながら村上春樹の7年ぶりの新作を読んでいるととても贅沢な時間を送っているような気がする。

1Q84」を読んでいる間、ジャック・フィニィのことを考えていた。感傷的にアナザーワールドを書かせるとジャック・フィニィの右に出る者はいないと思っているが、惜しむらくは彼は本質的に短編作家なので、ジャック・フィニィのベストの長編というものはない。ジャック・フィニィが日本に生まれて、長編作家だったら、彼なら「1Q84」を書いていたかもしれない。これはそういう作品としても読める。

1984年の4月から9月。私は21歳で、物理学科に進んで、心の半分は希望に満ち溢れ、心の半分は劣等感に押しつぶされそうだった。そのころの記憶は今でもリアルな。「羊をめぐる冒険」は出ていたが、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」はまだ出ていなかった頃。

1Q84」が出るまでの村上春樹のマイベスト3はこうなっていた。
1位:羊をめぐる冒険佐々木マキの表紙につられて買った最初の春樹本)
2位:海辺のカフカ(今の研究室に来た直後に読了)
3位:世界の終わりとハードボイルドワンダーランド(たしか寒い季節にでたのではなかったか。第2食堂の下の書籍部で買った記憶がある)

この「1Q84」は僅差の2位になりそうだ。


「もしそうだとしたら、人生はけっこう薄暗い」
「かもね」
「しかし誰かを心から愛することができれば、それがどんなひどい相手であっても、あっちが自分を好きになってくれなかったとしても、少なくとも人生は地獄ではない。たとえいくぶん薄暗かったとしても」
「そういうこと」
「でもさ、青豆さん」とあゆみは言った。「私は思うんだけど、この世界ってさ、理屈も通ってないし、親切心もかなり不足している」
「そうかもしれない」と青豆は言った。「でも今更取り替えもきかない」
「返品有効期限はとっくに過ぎてしまった」とあゆみは言った。
「レシートも捨ててしまった」
「言えてる」
この会話が春樹節ですね。心地よい。


「歴史上の大量虐殺と同じだよ」
「大量虐殺?」
「やった方は適当な理屈をつけて行為を合理化できるし、忘れてもしまえる。見たくないものから目を背けることもできる。でもやられた方は忘れられない。目も背けられない。記憶は親から子へと受け継がれる。世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ」
「たしかに」と青豆は言った。それから軽く顔をしかめた。ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘い?


「ふかえりはテーブルの前に座って、背の高いグラスに注いだトマトジュースを飲んでいた。彼女はここにやって来たときと同じ服を着ていた。ストライプの男物のシャツに、細身のブルージーンズだ。しかし朝に見たときとは、ずいぶん印象が違って見えた。それは−天吾がそれに気づくまでに少し時間がかかったのだが−髪が束ねて上にあげられていたためだった。おかげで耳と首筋がすっかりむき出しになっていた。ついさっき作り上げられて、柔らかいブラシで粉を払われたばかりのような、小振りなピンク色の一対の耳がそこにあった。それは現実の音を聞き取るためというよりは、純粋に美的見地から作成された耳だった。少なくとも天吾の目にはそう見えた。そしてその下に続くかたちの良いほっそりした首筋は、陽光をふんだんに受けて育った野菜のように艶やかに輝いている。朝露とテントウムシが似合いそうな、どこまでも無垢な首だった。髪を上げた彼女を目にするのは初めてだったが、それは奇跡的なまでに親密で美しい光景だった」
このフェルメールのような細密描写が、村上春樹の初期作品からの些細で大事な変化だ。

あちこちで繰り返されている表現だが、現在、日本に生まれて最も良いことは、村上春樹の作品を最初に読めること、しかもnativeとして、ということである。