エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

独我論

すでに入梅したのではという感じの一日。子供が学校で聞いたきた話では、疎水で蛍が飛び始めたらしい。

鬼界彰夫の「ウィトゲンシュタインはこう考えた」を読む。

ウィトゲンシュタインについては、「語り得ぬものに関しては,沈黙しなければならない」という有名な文句以外はほとんど何も知らないが、20世紀の思潮に興味を持っていろいろ拾い読みをしているうちに(特にゲーデル不完全性定理)、どうも一度は彼の哲学を経験しておかなくてはならないのでは、という気分になってきた。とはいえ、彼の本はとりとめのない警句集のようでとりつくしまもないというのもよく知られた話だ。

と思って、書籍部でこの本をぱらぱら読んでいたら、実は2000年にウィトゲンシュタインの遺稿がCD-ROMの形で出版されて、彼の哲学も随分見通しよく読めるようになった、と書いてあった。これはいい、と読み始めた。

どうやら「極大言語」と「独我論」というのが彼の哲学を理解するキーワードらしい。

「様々な言語について、それぞれの構造によって決定されている内在的表現力の大小という問題について考えるなら、可能な最大の表現力を持つ言語というものを想定することができる。もしそんな言語が存在すれば、そえは「語ることが可能な全てのことを語りうる言語」であるはずであり、それによって思考する生き物は「考えうる全てのことが思考できる存在者」であろう。こうした言語を極大言語と呼ぶことにしよう。−こうした言葉を用いて表現するなら、「ムーアノート」の根本問題のとは「我々人間の言語は果たして極大言語か」ということに他ならない。これに対するウィトゲンシュタインの最終的な答えは「然り」というものである」

「何にでも名をつけ、何についても語れること、これが「極大言語」としての人間の言葉が持つ、強大な表現力のもう一つの秘密なのである。同時に我々の言語はこの力のために、存在しないものは言うに及ばず、存在するはずのないものにまで名を与えてしまい、様々な問題を抱え込むことにもなる。「ラッセルのパラドックス」をはじめとする論理的パラドックスの多くは、人間言語がこうした強大な表現力を持っているがために生じる事態である」

「若き日以来「私」あるいは自己はウィトゲンシュタインにとって常に最も重要な主題であった。それはウィトゲンシュタインの生そのものにとっても大きな意味を持っていた。彼の哲学的思考と生は「私」という場所において固く結ばれていたのである。独我論とは「私」が持つこうした特別な重みが生み出した特殊な錯覚であったと言えるだろう。それは自己を一つの対象とみなし、「私」とはこの特別な対象の名だと考える錯覚であり、そこから派生するあらゆる想念である。この錯覚の背後には、対象を指示する言葉としての名の集まりが言語であるというさらに大きな錯覚が存在していた。独我論という錯覚を、言語をめぐる根本的な錯覚とともに解消すること、それこそが「探究」に至る長い思考を通じてウィトゲンシュタインが自らに課した務めであり、ついに果たされた務めであった」

こうやって見てみると、ウィトゲンシュタインがすぐれて西洋的な思想家であることがわかる。極端なまでに自我にこだわるこうした姿勢は、どうしようもなく「無」に引かれる東洋人からすると最も遠い人のように思える。

ただ、このような言葉を見るとき、そうした西洋と東洋の距離は何ほどのものか、とも思う。
「生の問題の解決を人が認めるのは、この問題が消え去ることによってである」