エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

単純な脳、複雑な「私」

昨日は、北海道大学のS先生が来て、JCウイルスの話をしていった。教授の弟弟子で、電話をよく取り次いだりしているので、勝手に親近感を覚えていたが、会うのははじめて。実に味わいのあるいい人だった。話が結構ややこしかったので、途中でいろいろつっこみの質問が入ってきたら、「うーん、そうですかね。そういう可能性も考えておかないといけないんですかねぇ」といいながら考え込み始めて、聞いてる方もつられて一緒に考えてしまった。質問に完璧に答えるのがいい講演だと思っていたが、こういう路線もありかな。

池谷裕二の「単純な脳、複雑な「私」」を読む。

単純な脳、複雑な「私」

単純な脳、複雑な「私」

世の中、こいつにはかなわないと思う同業者がいるものだが、池谷裕二もそのひとり。「何でこういうことを思いつくものだろう」と不思議に思う。6年前に彼がRafael Yusteの研究室にいたときのScienceの論文を読んだときの新鮮な衝撃以来、「気になるやつ」である。

今回は母校の高校での講演会および少人数講義で、いわゆるアウトリーチ活動。そのせいもあり、最初の半分はどこかで聞いたような話だったが、さすがに後半できっちり追い込んでくる。読後感はヘビー。

「僕は、こうした他者から自己へという観察の投影先の転換があって、はじめて自分に「心」があることに自分で気づくようになったのでないかと想像している。つまり、ヒトに心が生まれたのは、自分を観察できるようになったからであって、もっと言えば、それまでに先祖の動物たちが「他者を観察できる」ようになっていたことが前提にある。
 だからヒトは、今でも「身体表現を通じて自分を理解する」という不思議な手続きを踏んでいる。常識的に考えれば、「脳の持ち主は自分なんだから、脳内で自身に直接アクセスすれば、もっとストレートに自分を理解できるんじゃないか」と思うよね。「体を通じて自己理解する」というのは、理解までのステップが増えてしまって非効率だ。
 でも、「生物は先祖の生命機能を使いまわすことによって進化してきた」という事実を忘れないでほしい。
 いや、「使い回す」ことしか、僕らには許されていない。「無」からいきなり新しい機能を生み出すことは進化的にはむずかしいことだ。そんな困難なことに時間を費やくらいなら、すでに存在しているすばらしい機能を転用して、似て非なる新能力を生み出す方が、はるかに実現可能性が高いし、効果的だろう。
 そうやって生まれたものが、僕らの「自己観察力」だ。これは「他人観察力」の使い回し。自己観察して自己理解に至るというプロセスは、一見、遠回りで非効率的かもしれないけど、進化的にはコストは低い」

「ここで僕が論じたかったのは、「自由意志が存在するかどうか」という問いは、その質問自体が微妙なところがあって、今の議論のように、むしろ、自由を「感じる能力」が私たちの脳に備わっているかどうかという疑問にも変換しうる。自由意志は、存在するかどうかではなくて、知覚されるものではないか、とね」
こういう考え方が池谷裕二の頭のよさを良くあらわしていると思う。彼の頭の中では、(もちろんdata-drivenの形で)普通とは全く違う風景が見えているのだろうという気がする。

(追記)栗本薫氏の訃報が入った。合掌。グイン・サーガは5巻目くらいからライブで追ってきたので特別な感慨がある。できれば誰かに後を書きついでもらって、この先の世界を見てみたい。