エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

松岡正剛の「多読術」

私は、自分の人生の目的(の少なくともひとつ)は、「読書家になること」だと思っている。なので、希代の読書家が読書法を語る本にはいつも興味津々である。新聞で松岡正剛の「多読術」の広告を見つけたので、早速生協書店に行って買ってきた。

多読術 (ちくまプリマー新書)

多読術 (ちくまプリマー新書)

いい本である。うんうんとうなづきたくなるところもあり、そうだったのかと驚くところもあり、大いに参考になった。

「読書というのは、書いてあることと自分が感じることとが「まざる」ということなんです。これは分離できません。それはリンゴを見ていて、リンゴの赤だけを感じることが不可能な事と同じだし、手紙の文面を読んでいる時に、こちら側に起こっているアタマやココロの出来事を分断できないことと同じです。そこは不即不離なんです」

「まず、書くのも読むのも「これはコミュニケーションのひとつなんだ」とみなすことです。人々がコミュニケーションするために、書いたり読んだりしているということです。このとき、著者が送り手で、読者が受けてだと考えてはいけません。執筆も読書も「双方向的な相互コミュニケーション」だと見るんです。
 次にそのうえで、著者と読者のあいだには、なんらかの「コミュニケーション・モデルの交換」が起こっていると見なします。それがさっきから言っている「書くモデル」と「読むモデル」のことなのですが、そこには交換ないし相互乗り入れがあります。正確に言うと、ぼくはそれを「エディティング・モデル」の相互乗り入れだと見ています」
これはよくわかる。論文にしても総説にしても、わかる(わかってもらえる」文章を書くためには、「読むつもりで書く」ことが大事だということを体得していくものだが、ここでがそれが相互的に起こっていると指摘されている。

「本はいろいろな読み方をするべきで、つまりは平均的な読書を求めてもダメだということです。ゆっくり読んでもいいし、お茶漬けをかきこむように読んでも、何人かで感想を言うために読んだっていいんです。いや、むしろそのようにギアチェンジをしてでも、多様な読み方をするべきですよ。それは、自分が読む時の読中感覚をイメージできるようにすることです」

「読書は「わからないから読む」。それに尽きます」
こういう切れ味のいい言葉にはしびれる。

「読書はそもそもリスクを伴うものなんです。それが読書です。ですから、本を読めばその本が自分を応援してくれると思い過ぎないことです。背信もする。裏切りもする。負担を追わせもする。それが読書です。だから、おもしろい」
「読書は、他者との交際なのです。
 これまで、本には「書くモデル」と「読むモデル」が重なっているんだという見方を何度かしてきましたが、それは本を読むということは、他者が書いたり作ったものと接するということだったからです。それを一言で言えば「読書は交際である」ということです。
 しかし、その交際はとても微妙で、どきまぎしたものを含んでいる。いや、そうでなくては、読書はつまらない」

こういう本を読むと、「読書家であること」の先にはまだまだ味わうべき面白さがあることが感じ取れる。それが一番の収穫だったかもしれない、