エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

心は脳の中だけに閉じ込めておくことはできない

アイルランド音楽と朗読を聴きに行った。久しぶりに漱石の「夢十夜」の文章に触れた。


河野哲也の「意識は実在しない」を読む。

意識は実在しない 心・知覚・自由 (講談社選書メチエ)

意識は実在しない 心・知覚・自由 (講談社選書メチエ)


この間のK先生の講義で出てきた宿題のようなものである。ある意味で全能感をもって暴走気味でさえあるポピュラー脳科学に対して、「拡張されたこころ」という考え方をキーワードにひとつひとつ批判的に検証している本。良書だと思うし、いくつかの点で、今までもやもやしていた問題が新しい角度から見えてきた。


脳科学の不十分 ― 問題は、脳のさまざまな物質的メカニズム、たとえば、神経細胞活動の仕組みや伝達物質の活動などが物理化学的・生理学的に確証されている(あるいは、検証可能である)のに対して、心のはたらきのフォーク・サイコロジー的な分類は、社会的規範に則ったものであった。これまで述べてきたように、心の働きの分類は、社会的規範に則ったものであった。はっきり言えば、脳科学者たちは、特段に深く考えることなく、それらの心理学的カテゴリーを踏襲して使用しているのではないだろうか。こうして脳科学は、私たちの社会の日常的なカテゴリーによって、心の働きを分類し、そのはたらきが行われている時に、同時に活動している脳部位を特定しようとする」

というところから論をすすめて、心は脳の中だけに閉じ込めておくことはできない、という主張に至る。

「心の働きは、社会的規範によって最終状態が決められた環境と身体との循環的因果性という機能をなしている。このように、心の働きの本質が、身体と環境との相互作用、しかもその相互作用が社会的な規範によって制御されているとするならば、心を脳の中だけに閉じ込めておくことはできない。というのも、心が働くためには、身体と環境とがその本質的な構成要素となりっているからである。この意味で、心は、身体と環境を含めた広域システムの上に実現している。拡張した心は、心が機能であることからの必然的な帰結である。そして、この相互作用は、社会によって完全に分節化されたものではない。ある部分は緻密に規範化され、他の部分はそうではない」


「意識・意図に先行して行為が決定されている」ということを強く印象づけるリベットの実験はいろいろな解釈がされているが、最初にその実験を「ユーザーイリュージョン」の中で知ったときは明確に感じられたその意味合いがだんだん輪郭がぼけてきたように感じていた。この本で以下のような解釈を読んで、意識はイリュージョンではないかもしれないという方向に向けてもう一度考え直してみようと思う。

「意図の奥行き理論に向けて − したがって、問題はこうである。ギブソンによれば、私たちの知覚は、生まれた時から始まり、死ぬまで終わらない。知覚はひとつの長い連続的な過程である。同様に考えるならば、私たちの行為も生まれた時から始まり、死ぬまで終わらないひとつの連続的過程として捉えることができる。人生がひとつの推移であるとするならば、問題はその一連の過程の中で、どのように行為が分節化されてくるのかにある」
「もし、意図がこのように形成されるのだとしたら、いわゆる『決意』というものは、ある行為を引き起こす同期を突然に心の中に発生させるものではないことが分かるであろう。ある行為を行うためには、私たちはある環境の中ですでに動機付けられていなければならあい。『よしやろう』といった決意は、それまでは行為に至らなかった様々な身体内外の状態を、綾屋の言う『意図のまとめ上げ』の地点までもたらすことにほかならない。それは、『食べたいけど食べたくない』といった両義的で、決定不全の状態から、さらにある情報を取得したり、ある情報をもう一度獲得することによって、あるいは別の情報を遮断したりすることによって、意図の分節化が生じるように動機づけを強めることなのである」


「人間の発達は、自己身体の内部と外部の情報(すなわち、動機づけ)を分節化・差異化して細かくしていく過程と、それを統合して、環境と自己との関係性を強固にしていく過程の繰り返しでできている。私たちの自由は、行為の選択可能性にある。この行為選択というcapabilityがない場合、環境との繊細なやりとりが困難になり、環境と自己はつながりを失っていく」

井筒俊彦の「意識と本質」で学んだことでもあるが、「分節化」はやはり非常に重要な考え方である。


議論の深さが印象的だが、ところどころで議論の重心が自分の考えているものと違うところにあるようにも感じる。これは哲学と科学の違いなのかもしれないし、もう少し違うところから来ているようにも思う。とはいえ、クオリアにこだわらなくていいと納得できた解放感だけでも読んだ価値はあった。