木曜日に聞いたMoo Ming Pooのレクチャーがずっと頭の中で残響を繰り返している。Moo Ming Pooは部地理畑出身の神経科学者で、「セカンドメッセンジャーのレベル変化による成長円錐ガイダンスの反転」「spike-timing dependent plasticity」など多くの追随者を生んだ新概念を提示してきた開拓型の研究者である。
彼が、国際生理学会で京都に来たついでに、「spike-timing dependent plasticity - Hebb postulate revisited」というレクチャーを行ったのを聞きに行った。
考え込んでいるのは、冒頭の10分間で「どうやって開拓型の研究を行うか」についてのPooの説明だ。「その分野の古典となっている文献の実験を現代の実験手法でやり直してみることで、私はしばしば新しい概念にたどりつくことができた」というものだ。そして、その一例として、「spike-timing dependent plasticity」についてのPoo研の10年余りにわたる成果を次々に繰り出してきた。
この方法は一般的に有効でありうるのか。考えた事のないアプローチだったので、自分でもできるのかどうかがなかなか見切れない。
高田明典の「難解な本を読む技術」を読む。
- 作者: 高田明典
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2009/05/15
- メディア: 新書
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衝動買いしてつんどいた本だが、情熱大陸スペシャルライブの行き帰りの車中で夢中になって読んでしまった。これは良書。
前半は「現代思想」およびその源流となっている古典のうちの難解書をどのように読むかについてのかなり実戦的なガイド。思想書には登山型とハイキング型がある、また閉じられた本と開かれた本がある、など。あとは読書ノートのとり方など。
後半は、10人の思想家をとりあげての「代表的難解本ガイド」。でてくるのは、デリダ、スピノザ、ウィトゲンシュタイン、ソシュール、フロイト、フーコー、ラカン、ドゥルーズ、ナンシー、ジジェク。何冊かはすでに挫折した代物が登場していたので、「そうかこう読めばいいのか」と納得するところが多かった。
「これらは、いわゆる「本読み」と呼ばれている人であれば、誰でも日常的に行っていることです。ただし、このような作業に尋常ではないほどの時間をかけるのが、「本読み」の習性です。個人的な野心としては、年間5000冊以上の本を「手にしたい、眺めたい」と考えています(これは努力目標であり、実際には週2回で計40冊程度の新刊本に「触る」という感じなので、年間2000冊くらいです)。5000冊としてもすべての本のおよそ1割ですが、実際のところ9割は「書名や著者名を見るだけで、ダメであることがわかる」ものですし、全く自分に関係ない分野もたくさんあるので、それらを除けば新刊本に関してはある程度補足できる数だと考えています」
私は、週2回くらい本屋にでかけて30分くらいで20冊くらいぱらぱら読むので、それの合計で1000冊。新刊本5万冊の2%をかすっているくらいだ。たぶんこの辺が「本読み」の最低死守ラインではあるまいか。
ラカンの項。
「この部分を「理解し難い」と感じるのは当然である。「無意識」とは、きわめて個人的な、その人間の心の奥底に存在するものであると「感じられる」からだ。しかし、ラカンはフロイトを引きつつ、「そうではない」と主張する。無意識が発生する場所は「言語」である。このラカンの主張は、極めて重要であり、むしろフロイトが到達しえなかった地平であるとさえ言えるだろう」
無意識が発生する場所は「言語」である、というのはかなりstrangeな言明だ。勉強家のAさんに感想を聞いてみたい。
「「私は〜である」という記号表現によって、主体は分節化され、切り取られる。それは、「私」を定義する記号によって、「私」そのものが分断される様子を表している。端的に言えば、「私」は、記号によって私の内部に取りこまれ、本来的な「私そのもの」とは違うものとして認識される」
ドゥルーズの項。
「一般に、視覚イメージの提示を中心的な方法論として持っている思想家の本は、非論理的だと受け取られる場合があるが、それは誤解である。論理展開には様々な方法が存在していて、必ずしも「記号論理学」的な表現に依拠したものだけが論理的であるわけではない。絵柄や図式で提示される「論理」であっても、十分な論理性を持つ場合は少なくない」
これは貴重なポイントだった。おかげでドゥルーズの「襞」がさっぱりわからなかった理由が納得できた。
現代思想を原著にあたってみたい人にはこの本を強くおすすめしたい。