エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

流動的知性である無意識は通時的である

今週は、半ばにU財団の研究助成金の贈呈式で東京まで日帰りした。体調不十分だったので、ドタキャンしようかと一瞬思ったが、我慢してでかけてよかった。出席率は95%以上だったし、U賞を受けた山中伸弥先生味のある話も聞けた。同時受賞はT大の飯野先生。山中先生の話は、大学院生のときにはじめてやった実験とその意外な顛末で座をほぐし、iPSに至る話を、ツボをおさえところどころにユーモアを交えて進む。「実験なんて1割の打率なら大成功ですから、常時ストレスを抱えています」は同感。1割以下の打率で、あそこまですばらしい仕事ができるのは、次から次へアイデアが湧いてくるからだろう。そういうチームを作りたいもんだなと考え込む。

中沢新一の「対称性人類学」を読んだ。

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

20台半ばでこれを読んだら、すっかり中沢教徒になっていたかもしれない。
今はというと、強く惹かれる部分もあり、反発する部分もある。
「心」を理解するために無意識に特に注目し、その特性を細かく洗い出していくというアプローチは興味深い。ただし、この本にも出てくるように、フロイト構造主義の源流のひとつであり、中沢は構造主義の深化を目指しているわけだから、「そうなるよね」という気分ではある。驚きはあまりない。

中沢は、科学的思考・言語的思考の対立物として、「野生の思考」・対称性の論理に従う流動的知性・無意識的思考を置く。その論証の過程で、神話、分裂症、認知考古学、国家の誕生、経済とつぎつぎに踏破していく。そして、野生の思考を論理的に推し進めた実例として仏教をとりあげ、その方向での未来に「対称性人類学」という「形而上学革命」の夢を語る。

対称性人類学」の公理を見てみよう。
「Ⅰ「野生の思考」はいまだに私達の「心」で作動を続けている。私達の心の基体を成す無意識が、不変の構造を持ち続けているからである。神話的思考を生み出してきた無意識は、芸術・哲学・科学的創造・経済生活などにおいて、いぜんとして大きな働きを行っている。
Ⅱ 無意識は数万年前ホモサピエンスの脳組織に怒って革命的な変化をきっかけにして形成され、私達の「心」の基体を形作ってきた。このとき、分化された知性領域を横断する流動的知性が形成されたのである。
Ⅲ 流動的知性は、脱領域的、高次元性、対称性などの特徴を持っている。その作動は基本的にフロイトの見出した「無意識」の働きと一致する。私達の「心」の基体は、流動的知性=対称性無意識にほかならない。
Ⅳ 流動的知性である無意識は、対称性の論理にしたがって作動をなす。これはつぎのような特徴を持つ。
(1)過去−現在−未来という時間系列を知らない。過去と未来がひとつに融合して、神話的思考における「ドリームタイム」と同じ無時間的表現を作り出している
(2)自己と他者の分離が行われない。個体どうしをつなぐ同質的な「流れるもの」が発生して、個体を包摂する「種=クラス」の働きが前面に現れてくる。そのためにこの領域では、免疫機構が一時的に解除されて、同一性の破れから他者性が流入する
(3)対称性の論理の要請にしたがって、「心」の基体では、部分と全体が一致する。そのために、「心」は無限集合の構造を備えるようになる。「心」は無限の広がりと深さをもつものと思考されるようになる。
Ⅴ 対称性無意識の働きを組み込んでいないどのような理論も、ホモサピエンスの「心」を本当には理解することはできない。したがって、対象性無意識という契機を欠いている理論−たとえば生成理論文法など−は、「心」の理解にとっては、きわめて疑わしいと考えざるを得ない」

「流動的知性である無意識は通時的である(時間の流れを知らない)」というのはいいなあ。でも、それを科学的に実証するのは可能なのか。そのあたりに反発の種がある。無意識(つまり無分節の認識・言語を用いない思考)で人はどこまで「考える」ことができるのか、という疑問が湧いてくる。

中沢はその種の思考の実例として、仏教を出してくるわけだが、仏教は結局、無分節の認識で終わってしまうのではなかろうか。無分節の認識を土台にして、「生」の実感を観取することはできるかもしれないが、はたして理論を組み立てることができようか。

私にはそういう道筋が想像できない。想像できない以上、「対称性人類学」という「形而上学革命」は私にとってはひとつのアジテーションとしてしか聞こえない。惹かれつつ反発する所以である。