エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

リターンマッチ

後藤正治の「リターンマッチ」を読んだ。

リターンマッチ (文春文庫)

リターンマッチ (文春文庫)

久米宏の頃のニュースステーションでも取り上げられていたそうなので、ある程度知られているらしいが、定時制高校である西宮西高校の英語教師でありボクシング部の顧問、脇浜義明とボクシング部員の話である。あったかくて切ない話だった。

脇浜という人物が抜群に魅力的だ。型破りで闘争的で、浪花節的で、わが道をいく(行くしかない)人だいうことが後藤正治の文章から伝わってくる。自分も高校の頃のある英語教師を思い出していた。桑爺というあだなのその先生は、教頭・校長という道を拒否した飄々として人で、しかも筋の通らない話に怒ってよその高校の校長をぽかりとやったという武勇伝を持っていた。

「脇浜は教員になってから組合活動家になるが、活動家に多い「観念左翼」とはまるで肌合いの違う活動家になったのは当然であったろう。
同僚の教師から、脇浜の「凄さ」というものを何度か聞くことがあった。これども、脇浜にいわせれば、それは単に目の付け所が違うからなのだという。
生徒が学校に来ない。先生たちがまず思うのは、勉強嫌いによるサボりということであろう。
けれども脇浜がまず思うのは、「履いてくる靴がないからじゃないか」という類のことである。それは自分自身が体験したことだったからである。幼い頃、家にゲタが一足しかなく、銭湯に行くのも、母親からひとりずつ順番に履いて出たこともあった」

以下のさわりは、柳田邦男があちこちで引用している脇浜自身の文章。
「いつの頃からか貧乏人の子がケンカに弱くなった。そのうえ怠け者で、横着で、金持ちのように不人情になった。<アカンタレがほんまのアカンタレになりよった>と古老は嘆く。京大がアメフトに優勝したのは象徴的だ。唯一の誇りであった肉体と腕力からも阻害されたら、ぼくらには一体何が残るというのだ。肉体と腕力のうえに、貧しい人たちのやさしさがあった。ゴンタクレが消える時、やさしさも失われていく。」

読み進めるうちに、教師と生徒の関係について何度も考え込む事があった。
「この学校を訪れるようになって、もし自分が教師だったら何ができるだろう、と私は折に触れて思った。答えは、やがて八木のそれとほとんど重なっていったような気がする。教師と生徒の間だからなにかができる、あるいはできなければならないとするのは、願望であり、錯誤であり、取り繕いなのではないのか。そもそも、人が人に対して、本当にできることなどあるのだろうか。あるとしても、それは、こうしたからこうなったというような直截なものではないだろう。それはきっと、長い時間のなかで、結果としてひとつの契機を得たというような形の、迂遠なものであろうと私には思える」
そういうものなのだろう、と実感する。教育(というか教師と生徒の関係)というのはおよそ効率の悪いものであり、それでも努力するものであり(たまには思い切り手を抜かないともたないのはもちろん)、こうやったらこうなるというものではない。

「教師は、その仕事を続けるなかで、ときに「教師冥利」という報酬を受け取り、ときに「傷」を負う。双方を重ね合わせながら螺旋状に歩んでいく歳月が教師稼業というものなのだろう。「三人組」とのかかわりにおいても、その双方があった。振り返っていえば、脇浜に、後者の疼きをより多く残したとはいえようか」
生物系の大学院など、ある意味で体育会系であり、浪花節であり、ずっと顔をつきあわせて長時間労働することもあり、これに似た感慨をもつこともある。でも私は臆病なので、なかなかそこまで踏み込めない。なので、こういう本を読むとうらやましさに身もだえする。

脇浜の言葉。
「六十歳の定年まであと八年か。ほかにもう、なあーんにもないもんな。生きがいなんて。だからね、なんだかんだいっても、あのガキどもに手を合わせて感謝せにゃいかんのよね、クックックッ、、、。この頃思うんですわ。教育なんてもんはないんだと。せいぜいあるのは、こっちが汗かいてやってみる、子供にやらせてみる。褒めてやる、その繰り返しじゃないのかって。いまはそんな場がほとんどない。それが問題なわけでしょう」