エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

再帰、言葉、無限、部分と全体

朝早くから仕事をはじめ、気分転換に裏の公園の小道をとっつきまで行って戻ってくる。どんぐりが落ちている。


竹中均の「精神分析自閉症」を読む。

精神分析と自閉症 フロイトからヴィトゲンシュタインへ (講談社選書メチエ)

精神分析と自閉症 フロイトからヴィトゲンシュタインへ (講談社選書メチエ)

再帰、言葉、無限、部分と全体。こうして取り上げると自閉症とはいかにも哲学的な疾病のように思える。おそらく正確にはわれわれが存在しているのは「そうした世界」であり、定型発達者はそれを見ないですむような「意識」を発達させているだけなのだろう。もちろんその境界は恣意的なものと考えてよいわけだろうが。

「結局、時間の導入によっても、(無限の)空間における「自己指示という矛盾」はすっきりと解決されはしない。そうではなくて、「時間の存在もまた矛盾」であるために、時間の導入が、空間の矛盾を吸収してくれたのである。「矛盾は、時間が解消するのではなく、時間によって、非問題化するのだ。
この「非問題化」のメカニズムをさらに見てみよう。大澤が自己指示的な指し示しの算法を用いて空間の区別を論じる際、初めのうちは、有限の空間を対象としているように見える。しかし、やがて「無限の再帰的反復」が導入されるに至って、自己指示的な指し示しとはじつは無限の問題であることが明らかになってくる。「観察者=行為者が世界に内属する以上(あるいは全ての指し示しが書かれざる問いに囲まれてあるしかない以上)、指し示しが無限の規模を持つ表現に媒介されるしかないように思われる」
ところが「体験は、常に有限の操作の集合でしかありえない。つまり、無限の形式への指し示しは、体験の領域には属さないのである。また無限の表現は、有限の表現から有限回の変換によって到達できないから、元々の有限な表現と同じ状態(意味)を指し示していると期待することすらできない」。―
それでは、この「体験の有限性と形式の無限性の間の矛盾」は、いかにして「非問題化」あるいは「回避しうる」のか。―すなわち、矛盾の回避の際に必要な条件は、「無限は厳密にその部分と等しい」と認めることなのである。「有限な集合の場合は、部分は常に全体より小さい」のに対して、無限な集合では、そのような部分/全体関係は成り立たない。無限のこの性質を利用するのである」

「『time slip現象は、自閉症児・者の意識や体験のあり方が、普通者の言語を軸とした構造とは異なっている可能性を示唆するものである。自閉症においては、体験世界が独自であるだけでなく、意識の構造そのものが通常のあり方とは異なっている可能性がある』
とするならば、時間の構造化とは、『意識の構造そのものが通常のあり方とは異なっている』状態のままで、定型発達者の時間の問題と折り合いをつけるための技法だと言えるのではないか。
このような実践的療育上の発想は、水準を異にするものの、大澤真幸が『行為の代数学』などで展開した、時間の矛盾を「非問題化」するための操作と似ている点があるように思われる。想像をたくましくして言えば、自閉症のある人は定型発達者以上に、自己指示的な指し示しでは『空間を実効的に区別することができない』のかもしれない」

時間というものがある種の仮構ではないかという点はしばしば言及される論点であるが、物理的議論ではなく、心理的あるいは社会(または共同幻想的)議論の中でこういう形で考えうるのだとすれば大変興味深い。


「『社会的状況』あるいは『文脈や会話』という全体の中に、自らを部分として位置づけ、その上で全体を眺め渡すという自己言及的振る舞いは、定型発達者にとっては自然な営みである。しかし、そのような部分/全体の関係が、自閉症のある人には難しいらしい。彼らは、『優れた観察者』である。しかしながら、たとえ話で言えば、自分が撮影する集合写真に、セルフタイマーを使って自らを映しこむことい大きな困難を感じる観察者なのである。したがって、自閉症のある人にとっての孤独とは、物理的な意味で独りぼっちであることを必ずしも意味しない。むしろ、明晰にして絶対的な観察者であること、あらざるをえないことが生み出す孤独なのである。日常会話の困難は、そのために支払われた代償と言えよう」


「私見では、『要素的な部分部分に全注意を向けることなく全体を感じとる能力』は、もともと存在するものではなく、二次的に『緩和』によって作り出されたものなのである。したがって、上記の『全体を感じ取る能力の欠如』は、有るか無いかの二項対立における端的な『欠如』とは言い切れない。言葉の問題かもしれないが、むしろ『全体を感じ取る能力』の二次的な構築が不調であると表現する方が適切ではないであろうか。
つまるところ、常識的な二項対立や部分/全体関係の捉え方では、自閉症のある人の世界をうまく捉えきれないように思われる。その点で、フロイトの『心理学草案』に見出される二項対立と部分/全体をめぐる諸論点は、自閉症論にとっても重要なテーマであると思う」

「人々の間で交わされる言葉の大部分は、実際には換喩的構造から成り立っている。しかし真に大切なのは、それらの換喩的構造が隠喩的構造によって支えられている点である。主体そのものが隠喩的構造によって支えられている点である。主体そのものが隠喩的構造によって支えられていると言ってもよい。したがって、主体が隠喩的構造に問題を抱えている場合、たとえば換喩的構造に何ら問題がなくても、心の悩みが生じる。だがそのことは、主体の意識によってはうまく把握できない。なぜなら、意識的な言葉の世界はおもに換喩的構造でできあがっているためである。分析家が直面するのは、この把握できなさであり、そのために言葉それ自体の隠喩的構造に目を向けねばならない。言い換えればそれは、無意識へと目を向けることである。
それでは、換喩と隠喩の違いとはなんであろうか。単純化して言えば、それは水平方向と垂直方向の違いである」

「言葉の世界だけに限らず、出会い損ないは至る所で生じている。ところが意識の水準では、言葉は現実を指し示しているとしか思えない。言葉が他の言葉しか指し示していないこと。それにも関わらず、言葉が現実を指し示しているように意識されること。両者の間には大きなずれがある。比喩的にいえば、言葉の世界が水平方向に限りなく広がっているのに対して、現実の世界は言葉の世界と平行して広がっており、両者は交わることがない。
もちろん、平行関係にあるこれら二つの平面の各所を垂直方向に切ってみれば、言葉と現実とは対応しているように見える。東は西の反対を指し示していると同時に、現実において太陽の昇る方向を指し示しているように見える。しかしながら、この垂直の対応関係は、本来、脆弱である。なぜなら、水平方向に広がり互いに平行関係にある二つの平面の関係を固定しているような、垂直方向の結びつきはもともと存在しないからである。そのため、二つの平面同士は容易に地すべりを起こしうるわけで、その結果、垂直方向の対応関係はつねに不安定さをはらんでいる」

「一見すると隠喩の成立とは、赤くて丸い果物に『リンゴ』と名前をつけるような単純な行為のように見えるかもしれない。しかしそうではない。今まで見てきたように、私たちは言葉の世界の中に閉じ込められて、その外には踏み出せない。この状態が続く限り、言葉の世界の中でイメージを換喩的に作り上げることはできるものの、対象それ自体とは擬似的にせよ出会うことはできない。このような不可能性を前提とした上で、にも関わらず現実対象や他者との関わりを作り上げようとするアクロバット的な試みが隠喩である。それは、不可能性の上に築き上げられた可能性、閉鎖性に基づく開放性に過ぎないとも言える。とはいえ、曲がりなりにもそれは他者との関わりの始まりであり、社会性獲得の第一歩でもある。すなわち隠喩とは、すでにある状態の維持よりも、『起源に関する問題』に深く関わっている」

「もしも自閉症が隠喩の機能不全の問題であると見る考え方が正しいとすれば、自閉症療育とは、隠喩の問題に立ち向かう営みといえるであろうか。また、自閉症療育の実践的課題の中に、現代社会における隠喩をめぐる理論的問題を見出せるであろうか」

「意味の側が内部だけで成り立つのは、無意味の側がうまく隠されていればこそである。上記の『以下同様』もまた、そのような条件下でのみ無限後退に陥らずにすむ。ところが、それができない子供、すなわち『そうか、以下、同様なんだ』と納得できない子供の場合はどうか。後期ヴィトゲンシュタインの『探究』はこの可能性を見逃さない。それがいわゆる『規則のパラドクス』をめぐる問題である。『教師は言う、『以下同様!』しかし、ある生徒はあっちに行き、ある生徒はそっちに行き、またある生徒は分からなくてうろうろしている。教師は頭を抱える』。そしてこう自問せざるを得ない。『『論考』は何を見落としていたのか』と。
『以下同様』が作動し始める時、それは内包的説明の『緩和』としての外延的説明が成り立ちつつある瞬間ではないであろうか。それはあまりに自然なので、多くの人はこの瞬間を特別なこととしては意識しない。しかしながら、『そうか、以下、同様なんだ』と納得できず、執拗に質問を続ける子供は、単に思考実験上の架空存在ではなく、実際に存在する」