エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

トランスセンデンタル・アジール・コミュニズム

今日から入試。母親に付き添われている受験生が目に付く。「いやあ、でもK大医学部を受けるのなら俺も付き添うかも」という話になった。それにしても学生服というのは幼く見える。

中沢新一の「僕の叔父さん 網野善彦」を読んだ。

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

情のある文章というのはいいものだ。網野善彦という史観をひっくり返した偉人が、ごく親しみを持って感じられる。しかも網野史観のぎりぎりの本質をぐいぐいと突きつけてくる迫力を持っている。中沢新一の本を読むのは初めてだったが、この文章ならもっと読んでみたいと思った。

「いわゆる「網野史学」には、独特な形をしたトランスセンデンタルの要素がその核心部分に組み込んであり、それが網野さんによる歴史の「学」の結構全体をしっかりと支えている。その要素はおそらく、トランスセンデンタルに取り憑かれた人々と網野さんとの、運命的な出会いと深い対話をとおして成長していったものに違いないと、と私は思っている」

「それにしても、なんと奇妙なトランスセンデンタルではないだろうか。網野さんの歴史の「学」では、それが飛礫を飛ばす悪党や、無頼な人生を送る博打打や、性愛の神秘を言祝ぐ路傍の神様だとか、大地とともに生きる民衆の中に、そのトランスセンデンタルは宿るのである。それは言ってみれば「日本国」を抜け出ているアジール(避難地)だ。アジールは権力が手を触れることのできない空間である。つまりそれは権力の市呼応を離脱している。そういう空間に立つと、人は「日本国」というもさえ抜け出ていくことになる。そしてこの離脱によって、その人は逆に列島に展開された歴史のすべてを見通す力を獲得することになる」

人類は言葉を獲得し、制度を作って社会を構成することで、生物から離脱した。それはある種の自由を獲得する行為である。ところが、社会は(それを維持するための権力は)個人の自由を抹殺する。そこで、個人はどうにかして自由を取り戻そうとアジールを作り出すことを試みる。網野善彦アジールが実在したこと(法や権力の進入できない空間がかつてあったこと)を掘り返し、その視点をもって全く新しい歴史学を構築したことが見えてくる。そして、アジールを取り戻すことが夢見られるのだ。

「しかし、そのこと(近代に生まれた権力が、アジールとしての本質をもつ場所や空間や社会組織をつぎつぎに破壊し、消滅させること)を「進歩」と言うのはまったくの間違いだろう。アジールを消滅させることで、人間は自分の本質である根源的自由を抑圧してしまっているのである。根源的自由への通路を社会が喪うということで、「文化」は自分の根拠を失い、自分を複製し増殖していく権力機構ばかりが発達するようになる。ひとことで言えば、世界はニヒリズムに覆われるのだ」

「原初の森の中にひっそりとつくり出されていた古代のアジールと、中世の商人たちが貨幣の力と平等な人間関係をもとにして生み出そうとしていた自由の空間とが、同じ原理のもとに作動していたのではないかという網野善彦の直観は、まったくただしいものであったと私は思う。『無縁・公界・楽』を受け容れるのを、多くの歴史学者は拒否することで、自分の身を守ろうとした。それはこの本の中で動いている網野さんの思考の大胆な運動に、そうした歴史学者たちの思考がついていけなかったためだった。それほどに根源的な思想が、ここには語られているのだ」

このような根源的な(あるいは夢見られるような)直観が、どういう個人史にはくぐまれたのか。それは、簡単にいうと、「聖」とか「菩薩」とか呼ばれていた社会運動家タイプのコミュニストの系譜から出てきたことが自然に飲み込めるように語られている。

学生時代にまわりにいた何人かの人を思い出した。