今朝ふと比叡山を見上げると頂上の南側がうっすらと雪化粧していた。冬の空気は澄んでいるのでいつもより稜線がくっきり見える気がする。年の瀬の気分になる。昨日で大掃除も忘年会も済んで、今日からは読書三昧の冬休みの予定。
意識や時間についてある程度哲学にも踏み込みながらいろいろ読んでいくと、現象学についての言及がいろいろ出てくるが、Wikipediaを読んでももうひとつぴんとこないので、谷徹の「これが現象学だ」を読んだ。
- 作者: 谷徹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/11/15
- メディア: 新書
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現象学とは端的にはフッサールの思想である。一言で言うと、直接経験(あくまで主観的なもの)を反省的手法を用いながらこつこつ掘り下げていくステップのようだ。心理学の客観性に物足りなさを感じる向きには、主観について徹底的にかつ厳密にこだわるこの方法論が魅力的なのは判る気はする。だが、現象学が果たして生産的な学問なのかについては疑問が残った。まあ哲学を生産性で測ろうとするのが間違いなのだが。
「現象学の基本姿勢を表すのに、「事象そのものへ」という有名な標語が生まれた。こうした姿勢をもった現象学は、抽象的な思弁から最も遠いものであり、逆に、最も具体的な現実の経験(直接経験)に密着するものである」
「心理学は自然的態度を取る。とりわけ近代以後の心理学は、自然的態度の派生形態である自然科学的(自然主義的)態度を取る。だから、現象学と心理学は対立する。しかし、心理学においても、自然(主義)敵態度をエポケーして、視野をマッハ的光景に正しく現象学的に還元すれば、超越論的態度の心理学といったものが可能になるだろう。現象学とは、大きく言えば、これである」
「現象学は、他の「学問」を前提にしないという意味で、「学問的無前提性」を主張するのである、これは、現象学がまったく前提をもたないということではない。それどころか、現象学は諸学問/諸科学の前提としての直接経験=志向的体験をもち、これを己自身で解明しようとするのである。現象学は「下」と「内」の立場を徹底するのである」
非哲学的な感想だが、フッサールが前提を置かずに、自分の頭で考えていこうとする態度には心を動かすものがあった。彼の用語はしばしば余りにも自分の言葉でありすぎるために簡単には理解できないが、その真意をちらっと覗けたときは、フッサールの頭の中が一瞬覗けた気になってはっとする。