エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

構造主義と禅

内田樹の「寝ながら学べる構造主義」を読む。

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

構造主義の本は高い上に難しくて面白そうにない。おまけに今はポスト構造主義だし、文系でない自分には必読ではない、と思って構造主義は素通りしてきた。それがこんな本を読んだのは、内田樹のブログを読むようになったからである。こういうことが書いてあった。「ポスト構造主義時代というのは、構造主義的考え方を皆が無意識に自明のものとしている時代である」。それは気味が悪い。自分の考えを制約している思想があるのならば、そのはじっこだけでもかじっておかなければ。

読んで思ったこと。構造主義と禅とは同根のものではあるまいか。両方とも「分節することによる世界把握」への意義立てであるから。

ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。言語活動とは、「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、満天の星を星座に分かつ9ように、非定型的で星雲状の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私達の思考の中に存在するようになるのです」

「ある制度が「生成した瞬間の現場」、つまり歴史的な価値判断が混じりこんできて、それを汚す前の「なまの状態」のことを、のちにロラン・バルトは「零度」と術語化しました。構造主語とは、一言で言えば、さまざまな人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)における「零度の探求」であると言うこともできるでしょう」

「何か鋭利な刃物のようなものを用いて、ぐじゃぐじゃ癒着したものに鮮やかな切れ目をいれてゆくこと、それが「父」の仕事です。ですから、「父」は子どもと母との癒着に「否」を告げ、(近親相姦を禁じ)、同時に子どもに対して、ものには「名」があることを教え、言語記号と象徴の扱い方を教えるのです。
切れ目を入れること、名前をつけること。これはソシュールの説明で見たように、実は同じ一つの身振りです。アナログな世界にデジタルな切れ目を入れること、それは言語学的に言えば「記号による世界の分節」であり、人類学的に言えば「近親相姦の禁止」です」

このあたりは、井筒俊彦の「意識と本質」での禅の説明とぴたりと合う。
http://d.hatena.ne.jp/tnakamr/20080923


「自己同一性を確定した主体がまずあって、それが次々と他の人々と関係しつつ「自己実現する」のではありません。ネットワークの中に投げ込まれたものが、そこで「作り出した」意味や価値によって、己が誰であるかを回顧的に知る。主体性の起源は、主体の「存在」にではなく、主体の「行動」のうちにある。これが構造主義のいちばん根本にあり、すべての構造主義者に共有されている考え方である」
内田樹はこれが構造主義の肝だという。現代人の自己意識の弱さというのは、この考え方が流布したからではあるまいか。

レヴィ=ストロースの構造人類学上の知見は、私達を「人間とは何か」という根本的な問いへと差し向けます。レヴィ=ストロースが私たちに示してくれるのは、社会集団ごとに「感情」や「価値観」は驚くほど多様であるが、それらが社会の中で機能している仕方はただ一つだ、ということです。人間が他者と共生していくためには、時代と場所を問わず、あらゆる集団に妥当するルールがあります。それは「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」と「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」という二つのルールです」
このあたり、いろいろ思い当たることあり。

精神分析的に考えると、「私」という(「主体」の外部にある)ものを主体そのものと構造的に錯認して生き思考している(幼児が鏡像という自分の外にある視覚像にわれとわが身を「投げ入れる」という仕方で「私」の統一像を手に入れることを指す)以上、人間は、みな程度の差はあれ狂っている事になります。極論のように聞こえますが、これはなかなか思い切りのよい立場であって、そういうふうに考えてしまうと、それはそれでいろいろすっきりすることもあります」

「そのようにして私の外部に神話的に作り出された「私の十全な自己認識と自己実現を抑止する強大なもの」のことを精神分析は「父」と呼びます。「父」とは、そのようにして「私」の弱さをも含めて「私」を丸ごと説明し、根拠付けてくれる神話的な機能の別名なのです。
ですから、この「父」という機能は、それこそどんなものでも担うことができるのです。現実の父親はもちろんですが、権力者も、悪魔も、ブルジョワジーも、共産主義者も、ユダヤ人も、フリーメーソンも、植民地主義者も、男権主義者も、、、およそ、「私」の自己実現と自己認識が「うまくゆかない」場合の「原因」に擬されるものはすべて「父」と呼ぶことが可能です。そして、「父」の干渉によって、「うまくゆかない」ことの説明を果たした気になれるような心理構造を刷り込まれることを、私たちの世界では「成熟」と呼んでいるのです」
「人間」や「成熟」の像についてこういう風な考え方ができれば、確かに頭が柔らかいと言えるだろう。