エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

語りえぬものを語る

昨日は娘のリクエストで「もちもちの木」にラーメンを食べに行った。なかなかおいしい。


野矢茂樹の「語りえぬものを語る」を読む。

語りえぬものを語る

語りえぬものを語る


「語りえぬものの前では沈黙しなければならない」ということについての専門家である野矢が「語りえぬものを語る」ための考えをつむぎ出していく記録である。本人も後書きで、論文にはならない風景のようなものと書いているように、話はあちこちへ曲がり、ときどき立ち止まり、決して読みやすくはない。ただ読後感は決して悪くない。


入り口は相対主義。「絶対的に正しいものはない」は絶対に正しいかという相対主義パラドックスが扱われる。野矢はパラドックスを回避するために、いわば議論の外にでるような立場をとって相対主義を擁護する。その際に面白いのは、野矢の語りは論理的というよりもたぶんに情緒的な(気分的な)ものに導かれるように感じられる点だ。

「入不二の示した無限運動においても、相対主義は固定されたひとつのテーゼではなかった。そこにおいて相対主義は、むしろいっさいの主張を相対化しようとする力として働いていた。その意味で、相対主義は語りえないのである。そしておそらくこの言い方には入不二も共感してくれるに違いない。相対主義をひとつの主張として語り出してしまうこと、そこにこそ、相対主義パラドックスがある」

「われわれがものごとを知覚し、想起し、予期し、あるいは想像し、思考する、そのときのものごとの現れを、大森荘蔵は「立ち現れ」と呼んだ。あらゆるものごとは相貌をもって立ち現れる。そして大森は、それら相貌をもった立ち現われを担う、立ち現われとは独立に実在するとされる対象のごときものを想定することを拒否した。(立ち現われは背後を持たない)私は、大森のこの立場を引き継いでいる。
 ただし、あらかじめ予告しておけば、「語りえぬもの」を求める道の先に、私はおそらく大森にはまったく受け入れてもらえないだろう二元論的構図を探ることになる」

「私は、相対主義の基本的主張をこのように捉えたい。『観点によって相貌は異なる。そして観点は複数ありえ、いま自分がとっている観点も唯一のものではない』異なる概念枠がありうる。そして異なる概念枠は異なる観点を与え、異なる相貌を立ち現わすのである」

「『観点αからはAの相貌が立ち現れる』ということが分かるのは、観点αに実際に立っている者だけでしかない。観点αに立っていない者にはAの相貌は現れてこない。この事情を、相貌は『内側から』のみ把握される、ということにしたい。あるいは概念枠についても、同様に言いたい。概念枠が内側からしか把握されないこと、このことが、相対主義を悩ましいものとする根っこだと私は考えている」


『相貌』という野矢の気分にとってぴたりとくるキーワードを得て、野矢は語りえないことを語る方法を模索し始める。私秘的な体験や私的言語、非言語的体験などをたどりつつ、話はだんだん辿りにくくなる。まさに他人の頭の中を覗き込んでいるようなもので、野矢がひとつひとつの言葉に乗せている意味や重さを吟味しながらでなければ前へ進めない。ただし野矢はここでへんな諧謔や韜晦趣味に走っているわけではないので、少し我慢してたどっていけば、野矢の見ている(とおぼしき)風景が何となく見えてくる。

「かつての私が『意味』とか『理解可能性』といったことに過剰にしばられていたのは、まさに私が『論理哲学論考』的な思考圏にいたからだろう。この呪縛から逃れるのは、困難だが単純なことだ。ひとはしばしば理解できない力に突き動かされて動く。この、誰もが知っていることを、ただ呑みこみさえすればよい。だが―呑み込めたとして―、私は何を呑み込んだのだろうか」

「人間もまた動物である。それゆえわれわれもまた分節化されない非言語的な場に晒されている。だが人間の場合には、そこに言語によって分節化された世界もまた開けている。非言語的な場に晒されつつ、言語的に分節化された世界に生きる、この二重性こそ、人間の特徴であると私には思われる」

「結局のところ、私はデイヴィッドソンが批判した枠組と内容の二元論というドグマに戻ってしまったのだろうか。

 別に『二元論』を自称しても構わないが、それは枠組と内容の二元論ではない。あえて言えば、力と相貌の二元論―語らせる力と語り出される相貌との二元論―である」


これで「語りえぬものを語る」ことが可能になるのか。私はなると思うがたぶん野矢の論拠とは少し異なる。確かに、相貌という言葉で境界をにじませながら取り得た相対主義の立場から構築した力と相貌の二元論(これ自体が私は気分的にしかわからないのだが)により、語りえる世界という境界が確定しなくなるので、結果的に「語りえぬものを語る」ことは可能になるだろう。私はこの「天地有情」的世界は決して嫌いではないのだが、自分の考え方の好みからいうとポパー流の反証可能性に担保された理論(http://d.hatena.ne.jp/tnakamr/20111002/1317518099)の方が腑に落ちる。もっともそれ科学者としての日常を送る上で、その方が堅固な立場だというだけのことかもしれないのだが。