エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

進化の特異事象

ド・デューブの「進化の特異事象」を読む。星3つ半。

進化の特異事象

進化の特異事象

この本は、進化に関する本の定型とは随分違っている。生命史を基礎付けるために、宇宙化学と火山化学を含む非生物的化学についてのまとまった記述から説き起こしている。それに続いて、原始代謝についての同じくらいの長さの記述が続く。いわゆる生物学は最後の1/3に過ぎない。

この本の魅力は、その非生物的化学と原始代謝についての生き生きした記述にある。たとえば、エネルギー通貨としてのATPを説明する際には、「なぜリン酸か」「なぜアデノシンか」という問いに答える形で論を進める。生化学の教科書のメリハリの無さに閉口してきた人間にはこちらの方がよほどありがたい。おかげで生化学的な概念の肝のところに触れられたような気がする。

たとえば以下のくだり。
「ここにあらましを述べた生物の仕組みが美しく感じられるのは、集中化しているからである。ATPがADPと無機リン酸になるというたった一つの反応が、生合成構築家庭のすべてを支えているのである」
「電子伝達はATP生成と共役した場合しか、生体エネルギーとして役に立たない。つまり、ADPと無機リン酸が結合してATPとなる場合にだけ、供与体から受容体へと電子が移動できるような経路をたどるのである」

結果として、ド・デューブは他の多くの思想家と異なり、必然性と特異事象(singularity)に重点をおいて生命史を捉える。多くの思想家(たとえば、ジャック・モノー、フランシス・ジャコブ、S.J.グールド)は、「進化の道筋は偶発に支配され、予測できず再現もできない経路をたどるしかない」という結論に至っている。それに対して、ド・デューブは、広範な変異空間の探索が(直感に反して)現実的であると見積もり、「進化の道筋は偶発的で再現不可能なものではなく、必然に近づいてくるかもしれない」と述べる。そこから出てくるのは、地球外生命体の可能性である。

今後、教育中心大学に異動してたくさん授業をするようになっても、自分の精神衛生のためにも、この本のような授業をしたいと、読みながら思った。自分が面白いと思ったことを教えたい、ということだ。今の立場(研究中心大学)では、1年に1時間半の授業を3回もやればそれで講義のdutyは済んでしまうので、自分が面白いと思ったことに肉付けすれば、それが授業の内容になる。それが、半年で15回の授業をして生化学を教えるとなると全く変わるだろうなと思っていたが、この本を読んでその点を少し考え直した。