エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

コンピュータは自身で進化することができるのか

娘の古文と漢文の受験参考書選びに付き合う。ぱらぱらと見て、何だか随分様変わりしたという感じがする。もっとも大学の生協に並んでいる数学や物理の専門書も随分変わってきたので、今さら驚くことではないのだろう。


田中久美子の「記号と再帰」を読む。

記号と再帰: 記号論の形式・プログラムの必然

記号と再帰: 記号論の形式・プログラムの必然

学生時代から、「コンピュータにはmindは持てない」という意見の方に賭けて、神経細胞の中にその証拠の一端を見つけようとこつこつやってきたが、この数年、「そんなに固く考えることもないのではないか」という気がし始めている。今は、「持てない:持てる」=7:3くらいの気持ちでいる。きっかけのひとつは、数学基礎論や科学哲学の本をある程度まじめに読む時間がとれるようになったことだと思う。「記号」もそのキーワードのひとつで、「コンピュータにはmindは持てるか?」という問いに答えようとする時には、neuronal correlates of consciousnesではなく、むしろneuronal correlates of symbolを追求する方が近道ではないかという気持ちがある。それは例えば「お祖母ちゃん細胞」という形で答えが出ていると考える向きもあるだろうが、たぶんその前に「記号とは何か」についての了解が必要なのではないだろうか。


この本は第1章にあるように、再帰性をキーワードに、記号論の観点からプログラミング言語を論じたものである。以下が結論。

再帰とは、汎記号主義の無根拠な記号世界において根拠を対象に有せしめる一つの方法である」


まず、記号のモデルとして、ソシュールの二元論とパースの三元論をとりあげ、それぞれについてプログラミング言語における対応物を同定した上で、二元論と三元論の対応関係を掘り下げていく。このあたりの手際はアクロバティックであるが、必ずしも気分的にわかりやすくはない。

「記号には内容―whatあるいは意味論的なもの―を司る構成要素と、使用―howあるいは使用、実用論的なもの―を司るものがある、ということになる。記号とはsemanticsとpragmaticsを表象する媒体である」

ソシュールの転回は、記号が「名称のリスト」であることを否定したことである。具体的には、シニフィアンに、名前付与の機能だけでなく、分節の機能をも持たせることにより、この転回を行った。つまり、ソシュールにおいてはシニフィアンシニフィエを分節する。ソシュール以降の多くの二元論では分節の機能は指示子が持つ」

再帰は記号が投機的に記号系に導入される(内容が定まるに先立って導入されるという意味)からこそ、実現可能となるものである。確定する前の自身を投機的に記号で表し、それを用いて自身に言及することで自身を分節することが再帰である」
この「投機的に記号系に導入される」というのは新鮮な概念だった。これを入れると再帰という言葉にいままで考えていなかった可能性(奥行き?)があることがわかる。


「チャーチは、再帰的関数は不動点関数と非再帰関数の結合に変換することができることを示した」

再帰的な記号において使用が内容と融合するということは、意味論と実用論との関係を暗示する。ハーダーは、『意味論とは実用論を凍らせたものである』と述べているが、使用が意味へと凝固するその契機は、本章の考察を通してみると再帰にある。使用が内容へと凍り付いていく結実していくからくりの背景には再帰がある、ということが本章の一つの帰結である」

「一次性は一引数関数が適用する単項、二次性は非再帰的な一引数関数、三次性は不動点関数であることが示唆された。不動点関数の本質から三次性の本質は再帰にあることが考察された」


ここで、話は大きく転回する。「コピー技術、デジタル技術の時代に、いかに個物が特別な個物たりえるか」という問いである。筆者はどこまで意識しているのか文面からはわからないが、これはmechanical mindにとっては特別な問題である。プログラミングされたハードとしてのコンピュータなりロボットはコピー可能であり、同じものが無限に存在しうる。その時にそのロボットは個別の意識を持ちうるのか?そうだとしたら、決定済みのものからどうやって個別性が創発するのか、という問いが生まれる。あるいはロボットは全く同一の意識を持つのか。ただし、この推論では記号から意識への飛躍が行われており、それ自体が未解決の問題である。

「このように、唯一無二であるものに基礎付けられていたからこそかつてインスタンス(=個物)は普遍であった。しかし、時間的に、空間的に希少のものを普遍化しようとするコピー技術、デジタル技術が生まれ、それらを基礎として作られるインスタンスは、用いている技術の性質上もはや唯一無二たりえない。それでも、たとえばすばらしいコンピュータグラフィクスは、今ここ限りの何かに基づくわけでもなく完全にコピー可能なまま、アウラを持ちうるであろう。とすると、インスタンスが唯一無二でなく是態を持つとはどういうことか、是態の本質とは何かということについて考えなければならない。手がかりは、是態を持つインスタンスを得るプロセスに求められるだろう」

「系自身の出力を再帰的に入力することを繰り返して不動点へと向かうことを系の再帰という。最適化は系の再帰であると考えることができる」

「未確定の内容を指示するために記号を投機的に導入することができる以上は、記号の再帰は記号の避け難い本来的な性質で、そこには人間の記号と機械の記号の間に大きな差はない。自然言語とコンピュータの記号系の差は、再帰を解釈する方法の差にあり、それが記号系の構造的な違いを生み出す原因の一端なのである」


話は再び屈折して、自然言語プログラミング言語の違いは構造的と構成的ということだという結論に至る。これはコードを書いたことのある者にとってはごく自然だが、その意味するとことが意外に広いことに驚かされる。

「この『構成的』という用語は、構成的論理学、数学、プログラミングといった分野の背景にある考え方に相通じるものである。これらの分野では、計算対象なり数学の対象が存在するならば、それは構成されうるものでなければならない、と考える。このような考え方はブラウアーの直観主義論理学において発展した。直観主義論理学では、背理法が許されない点に特徴があり、数学の式の存在を明示的に示さないような間接的な証明は行うことはできない。この理論は構成的プログラミングと言われるプログラミングの一分野を基礎付ける」

「この差は系の頑健性と関係する。構造的な記号系では意味が明示的ではないため、記号の意味はいつもある程度あいまいであり、他の記号との重なりもある。異なる言語表現がほとんど同じ意味をなすこともままある。したがって、ある記号が一つ削除されたからといって、すべての系が動かなくなることはなく、同じとまではいかなくとも、補強を要しつつも何とか系全体が動き続ける。一方で、構成的な記号系では、記号は投機的に導入されても最終的には明示的で曖昧性のない内容となるように導入されなければならない。当然、ある同じ内容を表現するときは、プログラムコードの重複によるバグを避けるためにも同じ記号を集約させることになる。すると記号間の重なりはほとんどなく、同じ意味で異なる記号を用意する無駄はほとんど排除される。このため、記号を一つ削除することは、その記号に拠る系全体に影響が及ぶ事態となる」


話はこう流れて、いかのように結ばれる。

「コンピュータは自身で進化することができるのか。原理的にはプログラミング言語もコンピュータも再帰的である以上、潜在的な可能性はある。しかしそれには未だ進化の方向性という大きな問題があることを本章では見た。自身を改良するには進化の方向性を測る評価関数がプログラムとして形式的に記述されなければならない」